名称 | 第一青年学校跡(武蔵野市立第四中学校) | |||
住所 | 〒180-0001 東京都武蔵野市吉祥寺北町5丁目11 |
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解説 | 現在の武蔵野市立第四中学校のある場所は、かつて中島飛行機武蔵製作所の第一青年学校がありました。少年工達は働きながらこの場所で学んでいました。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
✅1944年「中島飛行機武蔵工場」航空写真
✅中島飛行機武蔵工場 配置図
1944~45年頃 | 現在 | |
① | 付属病院 | 住宅地 |
② | 西工場(旧多摩製作所) | 武蔵野中央公園・NTT |
③ | 東工場(旧武蔵野製作所) | パークタウン・NTT・こうちゃん公園 |
④ | 中島飛行機運動場 | 武蔵野陸上競技場 |
⑤ | 第一青年学校 | 武蔵野市立第四中学校 |
⑥ | 延命寺 | 延命寺 |
⑦ | 関前高射砲陣地 | グリーンパーク緑地 |
⑧ | 中島飛行機武蔵製作所正門 | 武蔵野市立高齢者総合センター |
⑨ | 引込線「橋台」 | ぎんなん橋 |
⑩ | 武蔵野野球場線 | 堀合遊歩道 |
⑪ | 武蔵製作所引込線 | グリーンパーク遊歩道 |
第二次世界大戦期、現在の武蔵野中央公園付近には三菱と肩を並べた航空機メーカー「中島飛行機株式会社」の工場’’武蔵製作所’’がありました。
零戦のエンジンの生産などを行っていた武蔵製作所には多くの従業員がおりましたが、その中には10代半ばの少年工もおりました。
彼らは14歳で国民学校高等科を終了し、職業訓練のために青年学校に入ります。
武蔵製作所で働きながらも青年学校で勉強する二足の草鞋を履く生活でした。
現在の武蔵野市立第四中学校がある場所に、かつての青年学校「中島飛行機武蔵野青年学校」が建っていました。
✅第一青年学校跡
武蔵野の戦争の記憶を訪ねて
中島飛行機 武蔵製作所 第一青年学校
現在の市役所から都立武蔵野中央公園にかけて、戦前の日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機株式会社のエンジン製造工場であった武蔵製作所があり、日本の軍用機用エンジンの30%近くを生産していました。このため第二次世界大戦末期には、アメリカ軍の爆撃機B29 によるマリアナ諸島からの日本本土最初の攻撃目標となり、終戦までに合計9回もの爆撃を受けました。
武蔵野市立第四中学校は、戦時中、この中島飛行機武蔵製作所の第一青年学校が所在していた場所です。青年学校とは、国民学校高等科(14歳)を終えた青少年に職業訓練などを行うために設置された教育機関で、工場に勤務していた少年工(養成工)は、この青年学校に通いながら工場で働いていました。第一青年学校は、当初「武蔵野青年学校」という名称でしたが、これは中島飛行機がこの地に進出した1938年(昭和13)年当時、陸軍専用工場の「武蔵野製作所」の青年学校だったからです。さらに、1941(昭和16)念、武蔵野製作所の隣に、海軍専用の工場「多摩製作所」が開設されると、現在の千川小学校の場所に「多摩青年学校」ができました。1943(昭和18)念、両工場は合併し「武蔵製作所」となると、青年学校の名称もそれぞれ「第一青年学校」、「第二青年学校」と変わりました。
1944(昭和19)年11月24日の空襲を皮切りに武蔵製作所に対する米軍の攻撃は激しさを増し、特に1945(昭和20)年4月2日の夜間空襲では、第一青年学校の寮が焼失し、校舎も被害を受けました。現在、校庭には「興亜之松」という碑があり、青年学校の3期生が卒業の記念に植樹したことが明記されていますが、現在ある松が当時のものかは定かではありません。戦後一時、慶応大学医学部が校舎を間借りしていましたが、1953(昭和28)年4月1日、この校舎を改修して武蔵野市立第四中学校が開校しました。
武蔵野市
武蔵野市非核都市宣言平和事業実行委員会