砲兵工廠 跡碑
名称 | 砲兵工廠 跡碑 | |||
住所 | 〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城3−1 |
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解説 | 大阪城ホールの近くにある碑。 アジアトップレベルの軍需工場「大阪砲兵工廠」がこの地にあったことを伝えている。 |
難度 | ||
A |
大阪城ホールの近くには野球場があり、その野球場の一角に一つの石碑があります。
これは「砲兵工廠 跡碑」という記念碑です。
戦前・戦中にかけて、大阪城の東側には「大阪砲兵工廠」という大規模な軍需工場がありました。
日本の近代化が進んだ明治維新後、軍備を国内生産することを目指した明治政府は、兵部大輔「大村益次郎」の進言により1870年に「造兵司」が置かれました。
陸軍省が発足すると造兵司は「大砲製造所」と呼ばれるようになります。
その後、「砲兵第二方面内砲兵支廠」という名前を経て、「大阪砲兵工廠」となりました。
大阪砲兵工廠はアジアでも随一の大規模軍需工場で、国内でもトップレベルの技術・設備をもっていました。
主な製造物は大口径の重火器でしたが、要望があれば民間人が使用する物も作りました。
大阪城の東側一帯が砲兵工廠の敷地で、敷地面積だけなら東京ドーム約125個分にもなります。
従業員数は最大時は6万4000人にもなりましたが、関連の民間企業を含めると更に多くなります。
✅大阪城周辺の古地図
✅砲兵工廠 跡碑
大阪砲兵工廠は日本軍の使用する重火器を製造していたことから、敵国側からは空襲の目標地とされました。
大阪は幾度も空襲を受けていますが、砲兵工廠自体には重大な被害はありませんでした。
終戦前日の8月14日、大型戦略爆撃機「B-29」が約150機飛来して大阪に空襲を行いました。
ターゲットは大阪砲兵工廠でしたので、大量の焼夷弾と1トン爆弾によって大阪砲兵工廠の設備は壊滅しました。
また、近隣にも被害は及び、工廠の北側に位置する京橋駅では旅客が避難していたホームに爆弾が直撃したことで多くの死傷者が出ました。
✅大阪砲兵工廠跡
✅跡地に造られた「大阪城ホール」
戦後、灰燼に帰した大阪砲兵工廠跡は不発弾がある可能性から放置されていました。
そのうち、工廠跡に落ちている鉄くずを拾って売る「アパッチ族」と呼ばれた人々が住みついた時期もありましたが、現在は大阪城公園として整備され、砲兵工廠の痕跡はわずかに残されているだけになっています。