神奈川県川崎市にある登戸研究所(第9陸軍技術研究所)を訪ねました。現在では小田急線の生田駅最寄りの明治大学生田キャンパス内に資料館として存在していて、無料で見学することができます。この研究所は戦後は慶應義塾大学が保有していましたが、慶應義塾が日吉のキャンパスを整備したことにより明治大学に譲渡され現在にいたっているようです。水曜から土曜の午前10時から午後4時の間のみ見学できます。(学生の試験などの行事によってはこの限りではない)
登戸研究所では何を研究していたのかというと、太平洋戦争中に行われた秘密戦に使用する機材や資材、兵器の研究や開発が行われていました。秘密戦とは何かというと、防諜(スパイ防止)や諜報(スパイ活動)、謀略(破壊・攪乱活動・暗殺)、宣伝(世論操作)などがあげられます。秘密戦はこの性質上、表舞台には基本的に出てこないため戦後になっても謎に満ちていることが多いです。下手をすれば国際法に反することもあるために、敗戦時に資料の焼却や処分の命令がされて資料がなくなっているのです。そのため、歴史の教科書に出てくるのはパールハーバーだったり、ミッドウェー海戦だったり、沖縄戦だったりで興味がなければ全く知らない分野であることは確かです。日本に潜り込んだスパイで多少知られているのはリヒャルトゾルゲや協力者の尾崎秀実でしょうか。「ゾルゲ事件」という名前で知られています。日本も国外の様々な場所に特務機関を置いてスパイ活動を行っていました。そんな時に使う道具を登戸研究所は作っていました。
✅’’秘密戦’’とは!?
秘密戦とは防諜・諜報・謀略・宣伝を主に総称したものです。
防諜
国内の機密情報が国外へ流失することを防ぐために、敵国スパイの摘発や自国民からの情報流失を取り締まる活動です。これらは主に憲兵隊によって行われていました。
諜報
敵国の情報を収集するためにスパイを潜入させて情報を入手することです。
謀略
敵国の要人の暗殺であったり、爆発物で建物を破壊するなど、建築物や国民生活に影響を与える破壊活動や攪乱させる工作です。
宣伝
敵国内で上空から虚偽の情報を記したビラを散布するなどして、敵国民の戦意喪失や混乱を狙って行われる情報操作工作です。
登戸研究所は小高い丘の上に存在していました。なぜかというと、研究している内容は極秘のものであるから情報漏洩を防ぐためにも山の上に作られ、多くの憲兵が警備を行っていました。また、研究所内での人の移動も厳格に管理されたことからも日本軍が登戸研究所の研究内容をかなり重要視していることがわかります。
現在の明治大学キャンパス内には登戸研究所の名残が多少残っており、資料館裏手には弾薬庫(薬品を置いていたとも言われている)が今でも残っています。また、図書館付近には日本陸軍のマークが入っている当時の消火栓が残っていたり、実験に使用した動物たちをくようするための動物慰霊碑が現存しています。取り壊されてしまいましたが、「26号棟」や「5号棟」も最近まで存在していました。
✅第1科の「風船爆弾」
風船爆弾は太平洋戦争末期にアメリカ本土を空襲する目的で作られていた兵器です。「風船爆弾」は戦後の呼称で、戦中は「気球爆弾」と呼ばれていたようです。秘匿名称は’’ふ号兵器’’。和紙をこんにゃく糊で張り合わせて水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)をつけて強度をあげた気球紙に水素ガスを注入して放球します。放球された風船爆弾は偏西風に乗り約9000㎞を飛行し、高度維持装置により高度を維持しながら2昼夜半かけてアメリカ上空にたどり着き焼夷弾や爆弾を投下します。また、実施されることはありませんでしたが風船爆弾に生物兵器を搭載する計画もありましたが、アメリカからの報復などの懸念から搭載されませんでした。
風船爆弾の開発は登戸研究所の第1科(科長:草場季喜)を中心にして行われました。第1科はもともとは’’ち号兵器’’を始めとした「電波を使用し、人体に被害を与える兵器」を主に研究・開発していましたが、風船爆弾の開発が決まった際に徐々に風船爆弾の方に重機が置かれていきました。第1科に加えて、偏西風に関しての研究には中央気象台、ウイルス兵器の開発には家畜衛生研究所などから技師が動員され進められました。また、気球紙に使用する和紙の生産には埼玉県小川町の小川和紙や岐阜の美濃和紙などの全国の和紙の生産地で行われ、張り合わせには女学生などが動員されました。風船爆弾の着弾が確認されている数は明確には分かっていないが300発前後は確認されています。あとは山間部などに落ちている可能性があります。
✅第2科 1~7班までの各班の研究内容
1班
秘密インキ:乾くと文字が消えて特定の薬品を塗ったり紫外線を照射すると文字が浮き出る等
焼夷材:自身が強撚性物質で周囲の可燃物質を燃やすものと、周囲の物質と化学反応を起こし発火させるものがある
オブラート紙・風船爆弾(材料研究)・気圧信管・爆薬・毒性化合物
2班
毒物合成:植物のユリグルマや、アマガサヘビという毒蛇の毒の研究
え号材:番犬や軍用犬の追跡能力を一時的に失わせる薬剤
3班
青酸ニトリル(アセトンシアンヒドリン):無色・無味・無臭・水溶性の遅効性の猛毒
毒性化合物・耐水マッチ
4班
炭疽菌:炭疽症を発生させる細菌
対動物用細菌・各種毒物
5班
小型カメラ(ライター型・マッチ型・ステッキ型・鞄型・ボタン型)・特殊カメラ(遠距離撮影用・夜間撮影用・水中撮影用・暗視装置’’あ号’’)・超縮写機材(マイクロドット)・感光材料
6班
対植物用細菌(小麦条斑病菌):食料の小麦にダメージを与えるための細菌
二化螟虫(ニカメイチュウ):稲の食害をする虫。二化螟蛾。
土壌破壊菌・真菌
7班
対動物用細菌(牛疫ウイルス)
✅偽札と偽旅券製造の第3課
1937年より日中戦争が勃発し、日本軍は武力では中国に勝利することが出来ず戦争は長期化していきました。そのような中で考えられたのが偽造紙幣を使用した謀略です。その目的は
偽札を使用して現地で物資を購入することで、戦争をやりやすくすること
この時に偽造紙幣を製造したのが第3課です。国家として偽造紙幣を製造することは国際法としても、道義的にも問題があったため、第3課は建物の周囲を高い塀で囲まれ、その上で所員が私的に第3課についての話をすることさえ禁じました。
偽札の製造技術
日中戦争開始の二年前に、中国はアメリカ・イギリスの支援を受けて通貨制度の改革を行っていました。それまでの中国では各地で発行された貨幣が使用されていましたが、通貨改革後は統一通貨である法幣を使用して徐々に各地に広まっていきました。この法幣はアメリカ・イギリスの両国から支援を受けて作られているため、イギリス製の法幣には「すかし」があり、アメリカ製の法幣は精密な印刷技術が生かされていました。第3課はこれらを研究すると同時に、内閣印刷局や凸版印刷などの機関や民間企業に協力を要請して1940年頃には精巧な偽札の製造ができたようです。
偽札の流通によって
日中戦争が勃発し、日本軍による経済工作の結果はどうなったのでしょうか。日中戦争によって中国国内の物資が不足したことによって物価は上昇してインフレーションが発生しました。これに対して中国は法幣の発行高を莫大に増やし対応しました。その結果、中国の膨大な量の法幣から見ると偽札は微々たる量の発行額となりました。経過はどうであれ、中国はインフレーションが起こりました。このインフレーションは当時の蒋介石政権に対する民衆からの信頼は低下することにつながりました。中国における日本の偽札工作は’’杉作戦’’と呼ばれています。
その他の製造物
第3課は法幣以外にもインドルピーの偽札も製造していました。インドはイギリスに占領されており、その独立を助ける形で日本の「光機関」が謀略を行っていました。インドがイギリスから独立することで日本の影響力を高めることができるからです。この光機関の依頼でインドルピーの偽札が製造されていましたが、インドルピーには高度な「すかし」の技術が使われていたために試作品を作る段階で終戦になってしまったそうです。また、偽の旅券も作成していました。中でもソ連の偽造旅券を作る機会が多く、秘密戦を行う際に必要に応じて作られており、常に製造していたわけではなかったようです。