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沖縄県糸満市にある平和祈念公園内には様々な慰霊碑がありますが、その中に「島守の塔」があります。
「平和の丘」近くにある「島守の塔」は沖縄県における最期の官選知事「島田叡(シマダアキラ)」の慰霊碑です。
現在の知事を決める方法は選挙における公選制となっていますが、戦前は国家機関が決めて派遣されてきた’’官選知事’’が県知事をしていました。
そのため、その場所に縁もゆかりもない人物が知事となることもある他、知事在任中に他の県の知事に異動させれられることもありました。
この「島田叡」という人物も元々は兵庫県神戸市出身、沖縄県知事にも急に赴任が決まりました。
また、島田叡の前任である「泉守紀(イズミシュキ)」は、沖縄県知事として赴任していましたが米軍上陸直前、急な香川県知事赴任が決まりました。
✅終焉之地
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荒井退造は沖縄県の警察部長だった人物です。
島田叡と共に、沖縄県民の疎開などについての交渉を軍側と行った人物でした。
最期まで行動を共にしていましたが最期は島田と共に姿を消しており、知事と同様に遺骨が見つかっていません。
✅島守の塔
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「島守の塔」は1951年、県民の寄付によって設置された慰霊碑です。
赴任してから県民の食料の確保や疎開について、県知事として県民のために尽力した「島田叡」は沖縄県民に強く支持されていたのが分かります。
✅終焉の壕
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終焉之地碑の裏には、島田叡・荒井退造両氏が避難していた軍医部壕があります。
第32軍のトップであった牛島満の自決により軍系統は崩壊しました。
その後、この壕を二人で出ていきましたがその後は確認されておらず、遺体も発見されていません。
そのため、壕の場所が最期の場所とされているようです。
県職員・警察職員への最期の訓示では、この時代では異例である「どうか命を永らえてほしい」ゆえの言葉を伝えたといわれています。
海軍中将であった太田實中将とも交流が深かったといわれており、島田知事は強く尊敬されていたそうでした。
太田中将による電文からも島田知事との交流があったことが分かります。
平和祈念公園には、太平洋戦争と沖縄戦の歴史についての資料館や、出土した魚雷や戦車の部品が展示されています。
摩文仁の丘上に黎明の塔と第32軍の終焉之地があります。
戦争では大人だけでなく青少年も犠牲になりました。
鉄血勤皇隊として戦地に赴き、尊い命を散らしました。