名称 | 上の壕 | |||
住所 | 〒901-0362 沖縄県糸満市字真栄里 (Googlemap:26.115155, 127.686283) |
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解説 | 白梅学徒隊が解散された後、女学生達が放浪の末に行き着いた場所。看護活動に使った「下の壕」と物置と女学生の休憩場所に使った「上の壕」がある。近くには田原屋取の壕も残る。「白梅之塔」に駐車場と公衆トイレがある。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
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糸満市字眞栄里に「白梅之塔」という慰霊塔があります。
この慰霊塔は沖縄県立女学校の生徒で構成された「白梅学徒隊」の慰霊塔です。
慰霊塔の横に学徒隊が看護活動を行った「下の壕」があります。
そして、慰霊塔から坂を少し登った場所にある眞山之塔の裏に「下の壕」があります。
白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒達はそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課
✅下の壕
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「眞山之塔」の裏にひっそりと碑がたっています。 柵の先はすぐに壕があります。
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白梅之塔 上の壕
左の竪穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。昭和二十年六月二十二日米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員及び一般住民が死傷した。
昭和六十三年六月 白梅同窓会
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自然洞穴を利用した壕のようです。
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