名称 | 下の壕 | |||
住所 | 〒901-0362 沖縄県糸満市字真栄里1839 |
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解説 | 南禅廣寺横にある壕。沖縄戦末期、白梅学徒隊が看護活動を行っていた。近くの眞山之塔裏に「上の壕」がある。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
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県立高等女学校の生徒からなる白梅学徒隊は、現八重瀬公園にある第24師団第一野戦病院壕にて負傷兵の看護活動を行っていました。
南部に戦場が移ってくると学徒隊に解散命令が下り、壕を出た白梅学徒隊は放浪の末に「下の壕」へとたどり着きました。
先にいた第一野戦病院の人員と共に負傷兵の看護活動を行いますが、この頃には病院としての機能はほぼ失われており、包帯交換や飯あげ、排泄、水汲みなどの作業しかありませんでした。
しかし、進軍してきた米軍の馬乗り攻撃を受けて下の壕では6人が死亡しました。
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白梅之塔に隣接している南禅廣寺とかいた拝所です。この左に白梅学徒隊がたどり着いた壕があります。
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白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒達はそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課
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