名称 | 白梅の塔 | |||
住所 | 〒901-0362 沖縄県糸満市眞栄里 (Googlemap:26.116445, 127.686172) |
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解説 | 第24師団第一野戦病院に勤務していた白梅学徒隊が、解散した後に学徒隊の一部がたどり着いたガマが近くにある。馬乗り攻撃を受け亡くなった。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
沖縄の女学生の碑となると映画などに取り上げられた影響などもあり、’’ひめゆり学徒隊’’と共に知られる「ひめゆりの塔」が有名ですが、他にもいくつか存在しています。
その中の一つに「白梅の塔」と「白梅学徒隊」があります。
「白梅学徒隊」は「白梅学徒看護隊」や「白梅隊」などとも呼ばれ、沖縄県立第二高等女学校の四年生によって編成された従軍看護婦隊の呼称です。
なぜ’’白梅’’なのかというと校章が白梅だったが由来といわれます。
現八重瀬公園の中に第24師団第一野戦病院壕跡があります。
白梅学徒隊はこの場所に配属され、負傷兵の看護活動や病院の雑務を行っていました。
しかし戦況悪化により学徒隊が解散され、壕を出て南部地域を彷徨った末に16人が白梅の塔付近にたどりつきました。
ガマには第24師団第一野戦病院の一部の人がおり、病院としての機能はほぼ失っていながらも学徒隊らも負傷兵の看護をします。
白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
生徒の仕事は、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯あげ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒達はそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課
白梅の塔付近には2つの壕があり、現在の白梅の塔近くにある壕を「下の壕」、少し坂を上がった場所にある真山之塔裏にある壕を「上の壕」と呼びました。
下の壕で負傷兵の看護をし、上の壕は食料や弾薬を仕舞う倉庫兼学徒の休憩場所として使われていました。
6月21日、下の壕が馬乗り攻撃を受けて学徒6名が死亡。
6月22日には上の壕も攻撃を受けて3名が死亡しています。