名称 | 留魂壕(リュウコンゴウ) | |||
住所 | 〒903-0812 沖縄県那覇市首里当蔵町3丁目 首里城公園内 |
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解説 | 首里城公園内の「東のアザナ」崖下にガマ遺構として残されている。 名前の由来は’’吉田松陰’’の「留魂録」より。 沖縄新報社が坑道スペースを使用して壕の中で陣中新聞を発行していた。 |
難度 | ||
A (行きやすい) |
首里城の有料区域である正殿を淑順門から出たら右に進みます。そのまま進むと東のアザナ下にある広場にたどり着きます。
東のアザナの崖下にあるのがガマ遺構「留魂壕」です。
ガマ遺構【Gama Remains】
崖地の下部に見える石積みの奥には、人力でつくられた洞窟状の遺構(以下、「ガマ遺構」という)があり、周辺の遺構と共に出土状況をそのまま展示しています。
このガマ遺構は18世紀初頭に作られた古絵図に描かれておりますが、琉球王国の正史には記録がありません。その形態は、浦添市にある「浦添ようどれ(琉球王国の陵墓)」とよく似ています。
また、この遺構は「ウシヌジガマ」と呼ばれ、首里王府の女官達が息抜きの場として使われたという伝承があります。ここから出土した遺物から、グスク時代(15世紀)から近代(20世紀)まで使われていたことが分かっています。
前面に見える切り立った崖地も人力で作れています。崖地の左側上部の石積付近では、厭勝銭(魔除けやまじないを目的とした金銭)1枚が出土しています。
ガマ遺構を囲むように、先の大戦中に師範学校の生徒達が掘った留魂壕がありました。
また、この一帯に2カ所の御嶽(琉球の信仰における祭祀などを行う施設)があった可能性が指摘されています。
Behind the stone masonry at the bottom of the precipice are remnants of a cabern-shaped manmade structure(hereinafter called ''Gama''),on display in the condition they were discovered.
The Gama appears in an old illustratibe map drawn in the early 18th Century,but is nowhere to be found in the official records of the Kingdom of Ryukyu.
its shape is very similar to the Urasoe Yodore(the royal mausoleum from the king-dom era)inUrasoe City.
Other artiifacts unearthed from this site indicate that the Gama was in use from the Gusuku era(15th Century)to the MOdern period(20th Century).【ガマ遺構案内板より引用】
✅ガマ遺構遠景
✅ガマ遺構前面
この壕が造られたのは1945年初めと言われており、前年末の那覇全域を襲った10・10空襲をきっかけに沖縄師範学校の生徒・教員により掘削が開始されました。
この沖縄師範学校の生徒らは、後に鉄血勤皇師範隊という少年兵部隊を結成され、正規部隊と共に戦闘に参加しました。
壕の構築は軍司令部の陣地壕と並行して行われ、約2カ月で長さ23.4m・幅4.5m・高さ1.8mの壕が完成しました。
米軍の上陸前の艦砲射撃や空襲が激しくなってくると、留魂壕は少年兵の生活場所とされ、破壊された民家の廃材を利用して2段の寝台を作り、畳も持ち込みました。
壕の入り口近くには炊事場、トイレは壕から少し離れたところに作られました。
3月下旬からは沖縄新報社が坑道の四畳敷ほどのスペースを使用して壕の中で陣中新聞を発行していました。そのため、壕内からは新聞を作るのに使用された活字が見つかっており、活字の型を見てみると「戦」などといった時勢に影響された字となっています。
陣中新聞は第32軍の要望で発行しており、第32軍からの情報から書かれていたので内容の真偽は定かではありません。
この壕は1945年5月頃まで使用されていましたが、第32軍の南部撤退のために放棄されました。