✅歴史を見てきた首里城
首里城は1427年の記録に城の整備について記載があるので、建設はそれ以前と考えられていますが詳しい時期は分かっていません。中山王であった尚 巴志王(しょう はしおう)により、南山・中山・北山が統一されて琉球王国が誕生すると首里城は政治や外交、文化の中心地となりました。
1469年に家臣であった後の尚円王によるクーデターが発生、政権交代が起こり、この尚円王から始まった王統は19代目までの約400年続きました。
この400年がずっと安定の時代であったわけでなく、1609年には薩摩藩が沖縄本島中部付近から侵攻し首里城を占拠しました。以降270年の間、薩摩と徳川幕府、そして中国との微妙な国際関係の狭間で存在しましたが、1879年に明治政府が沖縄県を設置しました。その際に尚泰王(しょう たいおう)は首里城から追放されてしまい、第2尚氏王統は琉球王国と共に終了します。
✅首里城について
首里城は東西は約400m、南北は約200m程の規模があり、内郭(15世紀初期完成)と外郭(16世紀中期完成)にて構成されています。内郭は「御庭(うーなー)」を中心とした行政区、その南側に祭祀空間の「京の内(きょうのうち)」、東側には居住空間「御内原(おうちばら)」にて構成されています。また、正殿や南殿、北殿の主たる建物も内郭にあります。また首里城内のこれら建物は東西を結ぶ線によって配置されていて、西が正面とされています。島国として中国や日本との交流によって、特にこの二つの国の建築文化の影響も強く受けたようです。
現在の首里城は沖縄戦によって破壊されたものが復元された建物です。
✅首里城跡(世界遺産)
世界遺産に登録されている首里城跡ですが、あの朱色の建物のことではありません。
世界遺産に登録されているのは復元された建物や城壁の下に眠っている石積みの遺構などになります。
正殿の一階において、ガラス越しにこの石積みを見学することが出来ます。
✅首里城にはトイレが無かった!?
首里城内には「働いている時にトイレに行くことはよくない」という暗黙のルールがありました。
そのため、城内にはトイレはなかったのです。
どうしても我慢できないといった時のために、「糞箱」や「小便筒」というイカした名前のおまる風アイテムがあったのでそれに用をたしました。
王様が暮らした「御内原」の通用門裏手には石組で出来た井戸のような物が発見されており、ここに糞便を捨てていたのでは?と考えられています。
✅龍潭
首里城の横には「龍潭(りゅうたん)」という池があります。
かなり大きな池ですがまさかの人口の池なのです!
首里城や円覚寺からの湧き水・雨水が隣の円鑑地に集まり、溢れた水が龍潭に流れてきています。
尚巴志王の時代に造られたとされ、堀った土で安国山が築かれました。
魚も多く住み着いていたことから魚小堀(イユグムイ)とも呼ばれ、中国からの使者「冊封使(さっぷうし)」をもてなす舟遊びの場所としても利用されました。池に船を浮かべ、中国の歌を歌いながら現在の「ハーリー」である爬龍船(はりゅうせん)競争が行われました。
✅首里城には学校があった?
国王追放後の首里城は、日本軍の駐屯地として利用されていましたが、1897年~1945年の間、首里市立女子工芸学校、沖縄県立工業従弟学校、首里第一尋常小学校などの校舎としても首里城は利用されました。
戦争により城は全焼しましたが、その跡地を琉球大学がキャンパスとして利用しました。
✅守礼門
「守礼門」にはいくつかの愛称があります。
古くは「首里門」と言われていましたが、庶民の間では「上の綾門」と呼ばれており、’’上の方にある美しい門’’という意味があります。
そして、「守礼門」の’’守礼’’とは「礼節を守る」という意味があります。守礼門には扁額(へんがく)という物が門に掲げられてあり、そこには’’守礼之邦’’と書かれています。先ほどの’’守礼’’の意味と一緒に考えると、「琉球王国は礼節を重んじる国」といった意味になります。
✅妃選びは’’ハサミ’’で決まる!
琉球王国のお妃選びの最終審査は、独特な方法で行われていました。
最終審査では、黄金のハサミが畳の下のどこかに隠されており、最終候補者の方々を好きな場所に座らせます。
ハサミの上に座った方が見事合格となったそうです!
そういう強運も大事という考えだったようです!