✅首里城とは
現在、沖縄旅行では外せないスポットとなっている首里城は、1429年から約450年続いた琉球王朝の栄華を象徴したような建造物です。
琉球王国は、中国や日本、東南アジアの国々と交流することによって、独自の文化を育ててきました。
歴代の琉球王は首里城で暮らしており、その貿易交流や政治の中心となった場所こそ「首里城」です。
太平洋戦争以前、沖縄には国宝認定の文化財が多くあり、京都や奈良と並んで文化財が多い県でした。
24あった文化財は沖縄の中心である首里に集まっていたこともあり、太平洋戦争での沖縄戦の際に焼失してしまいます。
焼失については首里城も例外でなく、現在の首里城は歴代の王様が暮らしてきた建物ではなく、平成に入ってから再建された建物となっています。
そんな首里城ですが、2000年12月に日本で11番目の世界遺産として登録されています。
✅狙われた首里
歴代の王様が暮らしてきた首里城はなぜ焼失してしまったのでしょうか。
それは太平洋戦争中の首里城には旧日本陸軍の司令部が作られていたからです。
司令部とは作戦基地であるので、首里城の地下にあった第32軍司令部壕は沖縄を守っていた第32軍の司令官であった牛島満、参謀長の長勇他多数の高級将校がいた場所でした。
重要な場所であるので戦いになれば狙われるのも当然で、首里司令部のある那覇市全域は焼夷弾攻撃などの爆撃の標的となり、この際に多数あった文化財も焼失してしまいます。
沖縄戦では、沖縄本島中部にある読谷海岸から米軍が上陸し、首里の司令部を目指して南下していく中で嘉数の戦いなどいくつも激しい戦闘がありました。
首里近郊でも「シュガーローフ(すりばち丘)の戦い」では丘一体は焼け野原となる激戦が行われています。
それほどまでに’’首里城’’は歴史の影響を強く受けた場所なのです。
✅第32軍司令部壕
✅通信所跡
✅第32軍司令部壕
歴史上の首里城の輝かしい部分とは対極の陰の部分「帝国陸軍第32軍司令部壕」は首里城公園内に今も存在しています。守礼門をくぐり、世界遺産園比屋武御嶽石門の横にある階段を降りた左にあります。おそらく首里城観光にきた方のほぼ全ての方は知らないかなとは思いますが…。司令部壕は地下30m、南北約390mの坑道が枝状に広がっており、総延長は千数百メートルほどだったと言われています。
沖縄守備の第32軍は、沖縄中部に上陸して南下してきた米軍をこの一帯でくい止めました。
圧倒的な戦力差がありながらも、米軍を幾度も撃退したとされています。しかし補給線の無い戦いで第32軍は消耗し、少しでも時間を稼ぐために首里司令部を放棄し南部地域へ向かいます。最期には現在の平和記念公園近くにある丘の上、所謂’’摩文仁の丘’’の岩窟内で司令官牛島満以下参謀らが自決し、沖縄戦における日本陸軍は終わりを告げます。また、陸軍が南下した先は多数の民間人が避難し隠れていた場所であり、軍人だけでなく民間人でさえも砲弾が飛び交う中での疎開生活を余儀なくされました。
✅歴史を語るアカギの大木
このアカギはトウダイグサ科の常緑広葉樹で、戦前まで約1mもの太い枝を首里城の城壁までのばし、道行く人々に涼しい木陰を提供していましたが、去る沖縄戦によって焼かれてしまい、枯れた幹だけが残りました。戦後、その幹も台風で途中から折れてしまいましたが、その後アコウ(クワ科)が寄生し、昔の面影をとどめています。
✅令和1.10.31 首里城正殿で火災
✅正殿
✅首里城の石垣(正殿地下にある)