名称 | 南冥の塔 | |||
住所 | 〒901-0333 沖縄県糸満市字摩文仁 (Googlemap:26.090207, 127.718166) |
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解説 | 日本軍・住民が追い詰められて逃げ場を失った場所。付近にあった遺体を一万二千柱祀っている。塔の隣には避難壕が残っている。 | 難度 | ||
B (長い階段が有り) |
![ポチ太郎](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2021/03/3.jpg)
![ハチ公](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2021/03/4.jpg)
沖縄戦の激戦地、摩文仁には平和記念公園があり、その外れに「南冥の塔」があります。
沖縄師範健児之塔へ向かう道が途中で分岐して南冥の塔への道があります。
✅南冥の塔入口
![](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2020/04/南冥の塔-10.jpg)
公衆トイレ近くで道が分かれています。「健児之塔」「チンガー・海岸方面」「南冥之塔」にそれぞれ行けます。
![](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2020/04/南冥の塔-9.jpg)
緩やかな下り坂が続きます。 左右は大岩が立てかけられたような地形で「ボージャーシー」と呼ばれています。
✅南冥の塔
![](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2020/04/南冥の塔-7.jpg)
南冥の塔
沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追い詰められ逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見まごうような悲惨な光景でした。
この南冥の塔は、沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米兵ヤマモト タツオ氏が中心となり、昭和二十九年九月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を収骨して建立されました。
現在、この塔の遺骨のほとんどは沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られています。
ここに追悼の意を表し、戦没者の御霊を慰めるとともに、安らかならんことを祈ります。内閣府沖縄総合事務局
陸海空から昼夜に渡って米軍の攻撃が続き、南冥の塔付近にも多くの遺体が転がっていました。
日系二世の米兵「ヤマモト タツオ」は、母親の亡骸の傍らで泣く少女を見つけますが、助けてあげたいながらも軍命によって素通りせざる得ませんでした。
戦後、その光景が脳裏を離れず夢にも出るほどであったヤマモト氏は、1954年9月に摩文仁を再訪し摩文仁住民と協力して南冥の塔を建立しました。
![](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2020/04/南冥の塔.jpg)
![](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2020/04/南冥の塔-2.jpg)
✅南冥の塔横の「ガマ」と「墓石」
![](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2020/04/南冥の塔-6.jpg)
「南冥の塔」横に当時の避難壕が残っています。また、入口横には多くの将兵の石柱が建立しています。
✅ガマ内
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あまり奥行きのない横穴のようです。
![](https://kur0s1ba-wank0.com/wp/wp-content/uploads/2020/04/南冥の塔-4.jpg)
岩の隙間から日が差し込んでいます。