名称 | 第一護郷隊之碑 | |||
住所 | 〒905-0018 沖縄県名護市大西2丁目2 |
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解説 | 昭和19年10月、当時17歳~18歳の少年らが召集され、名護小学校において護郷隊が編成された。 山原・本部を中心に転戦した。 名護小学校正門横から「第一護郷隊之碑」へ行くことができる。 |
難度 | ||
A |
✅第一護郷隊之碑
沖縄県名護市の名護小学校正門横に「第一護郷隊之碑」があります。
護郷隊は陸軍中野学校出身の将校が編成した14歳~18歳の少年らの部隊です。
同じような部隊に「鉄血勤皇隊」がありますが、この違いとして護郷隊はゲリラ戦を専門として秘密裡に結成された部隊でした。
そのため、スパイなどの秘密戦を学んできた「陸軍中野学校」出身の将校が隊長を務めました。
護郷隊には、北部在住で地元の地理に詳しい少年らが集められました。
しかし、鉄血勤皇隊と同じく、14歳から17歳では兵役法の対象でないので法的な根拠もありません。
そこで根拠とされたのが陸軍省令第58号「防衛召集規則」と第59号「陸軍召集規則」でした。
戦闘の最前線であった沖縄などでは14歳から17歳でも、本人の志願によれば召集できるという軍令でした。
これに対しては兵役法を改正した上で行うべきとの意見もありましたが、後に「義勇兵役法」という法律が制定されて全国において兵役義務を課せる年齢の制限も緩くなり男女の区別もなくなりました。
✅名護小学校正門横の入口
少年らは役場に呼び出され、集まるとそのまま召集されたといいます。
志願というのは建前でほぼ強制といえるような状況で、秘密裡に編成される部隊という特性上、子を連れていかれる親が「どこに連れていくのか」を問うても返答はありませんでした。
護郷隊となった少年らはゲリラ養成のための厳しい訓練がされました。
規律を破ると仲間同士で傷つけあったり、時には仲間を殺めることを強いられました。
✅第一護郷隊之碑
✅石碑の裏
ゲリラというのは、敵を欺いて翻弄・攪乱させることです。
そのためには大人よりも子供である方が好都合でした。
「故郷は自らの手で守る」という戦意高揚する部隊名を胸に約1000人の少年たちが戦地で戦い、約160人の子供らが亡くなりました。
少年護郷隊沿革史
太平洋戦争の末期、戦況の緊迫に伴い沖縄島が皇土防衛の第一線となるや、昭和19年10月15日勅令に基き、第三遊撃隊(通称:護郷隊)を編成す隊員は国頭郡に在住せる17~18歳の第二国民兵を防衛召集に依り充当し、名護国民学校にて遊撃戦遂行に必要なる戦技を附与する如く訓練す。
昭和20年1月、軍命令に基き、戦斗配備を整えると共に第二第三次に召集せる隊員の教育を謝花校羽地校にて実施し戦力を強化せり。
昭和20年3月23日、甲号戦備下令され本部(屋我地島及各村出身者)を多野岳に、第一中隊(名護町恩納村今帰仁村出身者)を名護岳に、第二中隊(羽地今帰仁村出身者)を多野岳に、第三中隊(久志村本部町出身者)を国頭支隊に配属し、三〇二高地に第四中隊(金武村本部町出身者)を久志岳に配備し至、厳なる警戒裡に戦備を完成す。
4月1日、敵は本島に上陸、4月7日名護湾に上陸するや第三中隊は乙羽岳及眞部山にて国頭支隊と共に第一線の戦斗に各隊は悉く戦斗地域に侵入せる敵に対し、果敢なる挺身遊撃戦を展開し、軍主力の作戦に呼應せり。
4月下旬、多野岳等の基地を欠陥せるも屈せず、神出鬼没或は夜間爆薬を抱いて敵陣深く潜入し或は白昼堂々と特殊秘密兵器を以て攻撃し敵の心胆を寒からしめ以て遊撃戦の本領を遺憾なく発揮せり。
6月下旬以降、南部地区の軍主力玉砕後に於いても眞に護郷隊の特色を発揮し変幻自在なる秘密遊撃戦を遂行中、8月15日終戦の詔勅を受け部隊を解散す