国道331号線から米須霊域方面へ進んで山城・伊原集落方面へ進むと「山城本部壕」があります。
この壕は南部撤退してきた陸軍病院本部壕の勤務者が滞在していたことから「沖縄陸軍山城本部壕」と呼ばれたり、地域の人からは「サキアブ」とも呼ばれるようです。
沖縄陸軍病院(通称号:球18803)は第三十二軍直轄の病院であり、1944年5月に熊本県の熊本陸軍病院で編成されます。
病院長は「広池文吉」陸軍軍医中佐。
当初は那覇市の関南中学校に本部・内科・伝染病科、済生会病院に外科、県立二中に兵舎を置いていました。
病院長以下300人程で構成されます。
同年10月10日の沖縄大空襲において病院施設が焼失してしまった為、現:南風原町にあった「南風原国民学校」の校舎へ移転すると同時に近くにある丘陵地帯「黄金森」に人口壕を掘り始めます。
この人口壕の中で唯一、「沖縄陸軍病院 南風原壕群20号」が公開されています。
また、1945年に入ると看護補助要員として沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒から構成された通称「ひめゆり学徒隊」も合流しています。
人口壕は約30ほど造られて病院機能も壕内へ移転されますが、米軍の進軍と共に病院壕も放棄して南部撤退することになります。
1945年5月末、南部撤退して行きついた場所が「山城本部壕(サキアブ)」でした。
この頃になると米軍の攻撃も激しく、日没直後や夜明け前後に砲爆撃が止んだ時ぐらいしか壕外で食料集め等ができませんでした。
1945年6月14日、壕前に直撃した爆撃によって病院長をはじめとし衛生兵や伝令に来ていたひめゆり学徒隊の生徒が戦死します。
病院長の死亡もあり、本部としての機能は付近のアブチラ壕(伊原第一外科壕)やチブラーアブ(伊原第三外科壕)に分散されました。
沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)
おきなわりくぐんびょういんやまぐすくほんぶごう
地元ではサキアブと呼ばれている自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると、壕口のある広場と奥の広場の二つに分かれています。
1945年3月、米軍の猛攻撃や艦砲射撃が始まると山城の住民の一部がこのサキアブに避難しました。
5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕とし、第一外科壕、第三外科壕を伊原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒とも配属されていました。
廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ分散した各外科壕を統一しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい範囲攻撃の中をさまようことになりました。
糸満市
沖縄陸軍山城本部壕 (オキナワリクグンヤマグスクホンブゴウ) |
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設置 | 1964(昭和39)1月26日 |
再建 | 1992(平成4年)6月23日 |
設置者 | 沖縄陸軍病院慰霊会 |
所有者 | 公益財団法人沖縄県平和祈念財団 |