名称 | 武蔵野中央公園 | |||
住所 | 〒180-0011 東京都武蔵野市八幡町2丁目4−番22号 |
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解説 | かつての「中島飛行機株式会社武蔵製作所」があった場所が整備されて公園となった。零式艦上戦闘機(通称:零戦)や一式戦闘機「隼」の発動機(エンジン)が造られていたが、その重要さ故に敵国爆撃の標的となった。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
テニスコートなどもあります!!
武蔵野市役所や武蔵野陸上競技場に隣接して市民の憩いの場となっているのが「武蔵野中央公園」です。
東京郊外ではあるものの、約10万平方mの広さをもち、広い原っぱに加えてテニスコートやバーベキュー広場、遊具場、ゲートボール広場などが整備されています。
この場所は遠い昔から公園だったのかというとそうではありませんでした。
戦中まで遡るとこの場所にあったのは「中島飛行機株式会社武蔵製作所」という軍需工場でした。
「軍需工場」というのは、銃や大砲などの兵器の部品や弾薬、戦闘機などの軍事物資を製造していた工場のことで、武蔵製作所ではゼロ戦で知られる「零式艦上戦闘機」や一式戦闘機「隼」のエンジンを製造していたようです。
✅1940年代の武蔵野市周辺
✅武蔵野飛行機関連施設
1944~45年頃 | 現在 | |
① | 付属病院 | 住宅地 |
② | 西工場(旧多摩製作所) | 武蔵野中央公園・NTT |
③ | 東工場(旧武蔵野製作所) | パークタウン・NTT・こうちゃん公園 |
④ | 中島飛行機運動場 | 武蔵野陸上競技場 |
⑤ | 第一青年学校 | 武蔵野市立第四中学校 |
⑥ | 延命寺 | 延命寺 |
⑦ | 関前高射砲陣地 | グリーンパーク緑地 |
⑧ | 中島飛行機武蔵製作所正門 | 武蔵野市立高齢者総合センター |
⑨ | 引込線「橋台」 | ぎんなん橋 |
⑩ | 武蔵野野球場線 | 堀合遊歩道 |
⑪ | 武蔵製作所引込線 | グリーンパーク遊歩道 |
同じ会社の工場であるのに「多摩製作所」と「武蔵野製作所」に分かれているのはなぜなのでしょうか?
簡単に表すと、「多摩製作所=海軍」・「武蔵野製作所=陸軍」の機体の発動機(エンジン)が造られていました。
1938年に武蔵野製作所が設置され、1941年nに多摩製作所を設置、43年に合併して「武蔵製作所」となりました。
✅中島飛行機について
「中島飛行機株式会社」は、1917年から終戦の1945年まで存在した航空機・航空エンジンメーカーです。
創業者は元海軍軍人であった「中島知久平」です。
戦中の航空機メーカーとしては、財閥としては1884年から存在している三菱重工とは違い、歴史は浅いながらも終戦時には三菱重工と並ぶどころか「東洋一」ともいわれる程の航空機メーカーとなりました。
日本の戦闘機生産割合の約37%を占め、工場も中島の出身地である群馬県太田市の「太田製作所」、東京都武蔵野市の「武蔵製作所」、栃木県宇都宮市の「宇都宮製作所」など多数の工場を有していました。
代表的な航空機には、一式戦闘機「隼(ハヤブサ)」・二式戦闘機「鍾馗(ショウキ)」・四式戦闘機「疾風(ハヤテ)」・夜間戦闘機「月光」・感情攻撃機「天山(テンザン)」・艦上偵察機「彩雲(サイウン)」があります。
発動機には、寿・栄・誉があります。
戦後、軍需産業を中心とした財閥解体では中島飛行機株式会社も12の会社に解体されました。
現在でも残っている中でも最も知られているであろう会社には、自動車メーカーである「SUBARU(旧:富士重工業)」があります。
✅武蔵野中央公園
都立武蔵野中央公園の歴史
武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ(古歌)
この地は、かつて小楢や櫟、野草が生い茂る宏大な武蔵野台地の一角であった。承応3年(1654)に玉川上水が完成し、その分水を受け、西久保城山町(現港区芝)、関前(現練馬区関町)、上保谷村(現保谷市)等から移り住んだ開拓農民によって開墾され、以来200数十年余の間この一帯は西窪村および関前村と呼ばれていた。その後、明治22年には周辺の境村、吉祥寺村、井口新田飛地と合併し武蔵野村が誕生し、昭和3年には武蔵野町となった。
緑が美しいのどかな畑地であったこの地は、昭和13年中島飛行機株式会社が、本公園の敷地を含む畑地66万平方メートルに大規模な工場を建設したことにより、時代の荒波に巻き込まれることになった。
中島飛行機株式会社は、大東亜戦争(太平洋戦争)中、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を始め陸海軍機の発動機を生産する国内随一の航空機メーカーであったため、米軍による攻撃の最大の目標となり、戦争の激化に伴い昭和19年11月以来延べ9回にわたる空襲を受け、工場だけでも220名、このほか周辺町民等多数の尊い生命が奪われ、工場もほとんどが灰燼に帰してしまった。
終戦を迎えて工場は閉鎖され、新生日本への復興の道が模索され始めた昭和27年、工場跡地に日米安全保障条約に基づき米軍宿舎を建設することが決定された。市民は当時の荒井源吉市長を先頭に建設反対運動を展開したが、昭和28年11月に米軍宿舎「グリーンパーク」が完成し、米軍将校とその家族約760世帯・2000数百名が入居した。その後、市・市議会・市民が一体となった返還運動が高まり、昭和48年ついに返還が実現した。
昭和50年、東京都はこの地を都市計画公園として整備することを決定、その後昭和53年には暫定的に全面開放され、市民の憩いの場として親しまれるようになった。公園整備にあたっては、自然のままの「はらっぱ」を残したいという市民の強い要望により、平成元年、通称「はらっぱ公園」として親しまれる。現在の都立武蔵野中央公園が誕生することとなった。こうしてこの地は、半世紀に亘る激動の時代を経て、緑が美しい畑地であった昔を偲ばせる「はらっぱ」に返った。
我々は、歴史を振りかえり、戦争の犠牲になられた多くの方々に心から哀悼の意を表するとともに、この「はらっぱ」をかけめぐる子どもたちの声に象徴される平和の光景がいつまでも続くよう、市民として、国民として、世界の人々と理解と友好、協力を深めるための不断の努力を続けていきたい。平成11年4月
武蔵野市
✅武蔵工場航空写真(案内看板より引用)
工場本館・資材置き場・技能養成所・青年学校・附属病院・運動場などの関連施設が約20棟建設されました。
そして従業員は4万5千人にも及びました。
✅現在の位置関係(案内看板より引用)
✅空襲の様子(案内看板より引用)
1944年11月24日、日本本土最初の空襲がこの場所でした。
後に9回の空襲がこの地を襲います。
武蔵製作所はほぼ全壊し、動員していた学徒も含めて220人程の死傷者がでました。
戦争の要であった航空機を造れなくすることは、戦況を優位に運ぶために不可欠であったことから、日本有数の航空機メーカーの工場であったこの場所がターゲットになりました。
✅公園内
✅武蔵製作所にあった「地下道の床面」
中島飛行機武蔵製作所「地下道」について
2016(平成28)年8月、この公園の拡張に伴い、地下埋設物撤去工事が実施されました。
その際、この周辺の地下から、1938年(昭和13)年の工場開設当時の「地下道」の、鉄筋コンクリート製の「床面(床盤)」と、「階段室」など地下施設の一部が発掘されました。
「地下道」は、さまざまなタイプがあったと思われますが、発掘されたものは、幅・高さともほぼ同じ内寸約2.7m、壁や天井の厚さを含め外寸約3mの大きさで、これが工場の地下に縦横に通っていました。
ここに展示してあるものは、その「床面(床盤)」の一部です。(資料提供 武蔵野市)
戦後、武蔵製作所の工場本館跡地のコンクリート建造物は、NTTが爆撃痕を補修して使用していましたが2001年に解体されています。
工場を繋いだ幅2.7m・長さ60mのコンクリート造りの地下道が調査されており、台車や滑車受けが発見されました。
付近の遺構や慰霊碑は、製作所北にある東伏見稲荷神社に「中島飛行機殉難者慰霊碑」「片野永正翁顕彰碑」、武蔵野大学に「散華乙女の記念樹碑」があります。