第32軍司令部 摩文仁壕
今回は沖縄県糸満市摩文仁に残る「第32軍司令部 摩文仁壕」だべ
摩文仁の丘の頂上にあります!!
1945年3月末の慶良間諸島への進攻を皮切りに日本軍と米軍の戦い「沖縄戦」が始まりました。
沖縄の地質や地形を巧みに利用し日本軍は頑強に抵抗しましたが、物資・兵力に劣る日本側は5月末には司令部にしていた首里城地下の司令部を放棄して南部に撤退後も残された兵力で抵抗しますが、第32軍司令官の牛島満中将と参謀長の長勇中将が6月22日(6月23日説も有り)に自決しました。
司令官のいなくなった第32軍の組織的戦闘は、事実上この自決をもって終了しました。
現在も「第32軍司令部終焉の地」という形で残されています。
自決前に第32軍司令部は決別電報の打電と各部隊に最後の命令をします。
球参電635号(6月18日1820発電)
参謀次長及び第10軍司令官宛に打電した決別電報
大命ヲ拝シ挙軍醜敵撃滅ノ一念ニ徹シ勇戦敢闘茲ニ3箇月全軍将兵鬼神ノ奮闘努力ニモ拘ラス陸海空ヲ圧スル敵ノ物量制シ難ク戦局正ニ最後ノ関頭ニ直面セリ
麾下部隊本島進駐以来現地同胞ノ献身的協力ノ下ニ鋭意作戦準備に邁進来リ、敵ヲ邀フルニ方ツテハ帝国陸海航空部隊ト相呼応シ将兵等シク皇土沖縄防衛ノ完璧ヲキセルシモ満不敏不徳の致ストコロ事志ト違ヒ今ヤ沖縄本島ヲ敵手ニ委セントシ負荷ノ重任ヲ継続スルアタワス、上 陛下ニ対シ奉リ下国民ニ対シ真ニ申訳ナシ、茲ニ残存手兵ヲ率い最後ノ一戦ヲ展開シ一死以テ御詫ヒ申上クル次第ナルモ唯々重任ヲ果シ得サリシヲ思ヒ長恨千歳ニ尽ルナシ
最後ノ決闘ニ当リ既ニ散華セル麾下数万ノ英霊ト共ニ皇室ノ弥栄ト皇国ノ必勝ヲ衷心ヨリ祈念シツツ全員或イハ護国ノ鬼ト化シテ敵ノ我カ本土来寇ヲ破砕シ神風トナリテ天翔ケリ必勝戦ニ馳せ参スルノ所存ナリ、戦雲碧々タル洋上尚小官統率下ノ離島各隊アリ何卒宜敷ク御指導賜リ度切ニ御願ヒ申上ク、茲に平素の御懇情、御指導並ビニ絶大ナル作戦協力ニ任セラレシ各上司並ニ各兵団ニ対シ深甚ナル謝意ヲ表シ遥ニ微衷ヲ披瀝シ以テ決別ノ辞トス
矢弾尽キ天地染メテ散ルトテモ魂還リ魂還リ皇国護ラン
秋ヲモ待タテ枯レ行ク青草ハ帰ル御国ノ春ニ甦ラナム
各部隊に送った最後の命令
親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし
(親愛なる部下たちよ。君たちは3ヵ月の間、勇敢に戦ってくれた。もう任務は完遂することができた。
国の為に戦った雄姿は、日本の未来を鮮やかに照らすことだろう。今は戦線も混乱し、通信も途絶え、私が指揮することもできなくなった。これからは各自の陣地で上官の指揮に従って、祖国の為に最後まで敢闘してほしい。さようなら、これが最後の命令なり。
生きて捕虜になることなく、最期まで日本の為に尽くすべし。)
この文中の「自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の部分が、「捕虜にならず全滅するまで戦え」とも受け取ることが出来ることから、無駄に戦闘を長引かせてしまい沖縄本島南部に避難していた民間人の犠牲も拡大したという批判もあります。
第32軍司令部 摩文仁壕は総延長約100m、入口は4ヵ所です。
その内の2ヵ所は絶壁の中間にあるのと、垂直の縦穴です。