2019年10月31日の未明、沖縄県那覇市にある首里城が焼失しました。
太平洋戦争での沖縄戦以来の焼失となりました。
そんな首里城は現在ではどんな状態なんでしょうか?
今回は儀保付近で用事があり、そのついでなので儀保駅から首里城に向かいます。
本来、首里城公園に向かうのに利用するのは首里駅、儀保駅は一つ手前の駅です。
地図で見てみると、首里城に入れる当蔵交差点までの直線距離は同じくらいに見えます。
✅沖縄都市モノレール「儀保駅」
儀保駅のホームから首里城が見えます。
方角を間違えることはなさそうです。
儀保駅下にある交差点を南下します。
沖縄銀行の赤い看板や、ラーメン屋の「通堂」が目印です。
少し歩くと緩いカーブがあります。
大通りのカーブは無視し直進、細い道に入ります。
✅知念商店の左の道へ進む
首里城は山の上にあり、儀保駅はその山を登ってる途中の駅。
上り坂が半端ないです。
帰りは下り坂だからいいですが。
ちなみに首里駅から首里城に行くと徒歩約10分ほど、行きは緩い下り坂、帰りは緩い上り坂になります。
急な傾斜は100mもないので2~3分で終わります。
すると「龍潭」に突き当たります。
「龍潭」は首里城にある池で、昔は海外からの使者をもてなすために使われたり、場内での憩いの場所でした。
この龍潭から首里城を見ることが出来ます。
✅龍潭から見た首里城
クレーン車が正殿付近で作業しています。
こう見ると焼けてしまったのを実感します。
このまま、守礼門から場内に入ってみましょう。
✅守礼門
コロナウイルスの影響で外国人観光客もいないこともあり、人もあまりいません。
以前だったら無理だった、人のいない守礼門。
よく見ると一人写っていますが、タイミングがあえば守礼門だけの写真が撮れますね。
✅現在のモデルコース
現在掲示されているモデルコース。
通常通り「歓会門」を通り「奉神門」までは行けますが、その先からは門が閉ざされています。
門横から「京の内」や「西のアザナ」へ繋がる道が現在のルートのようです。
有料エリアに入ることができないので、必然的に「東のアザナ」には行けないようですね。
✅歓会門
✅奉神門
「京の内」や「西のアザナ」を見たら終わりです。
お金もかかりません。
「木曳門」を抜けて駐車場へ向かう下り坂左側に「琉球大学跡」の碑があります。
現在の琉球大学は那覇市の隣’’西原町’’にありますが、戦後から1970年代まで首里城内にキャンパスがありました。
✅琉球大学跡
再度、歓会門方面に向かいます。
以前から見落としていた碑がありました。
「管理人のうちなーライフ かりゆし日記」さんのページを見ていると、歓会門近くに「忠魂碑」があるとのこと。
門を正面に見ると右側の石垣の上。
風化した「忠魂碑」があります。
忠魂碑というのは、国のために亡くなっていった多くの兵隊さんを祀るために造られたものです。
形式としては慰霊碑でしたが、軍国主義であった大日本帝国においては、「臣民や子供たちへの軍事教育に利用されていた面もある」とGHQは判断し数多くあった忠魂碑は撤去されました。
沖縄県内では沖縄市や読谷村にも忠魂碑は存在しています。
✅忠魂碑
再び歓会門をくぐり、直進していきます。
進むと「東のアザナ」の真下、「留魂壕」の前に行きつきます。
✅留魂壕前から正殿方面を撮影
✅留魂壕前
本当なら壕前から階段で「継世門」へ抜けることが出来ますが、現在は立ち入り禁止になっています。
仕方ないので引き返し、軍関係の施設も見ていくことにしましょう。
✅第32軍司令部壕 第一坑口
第32軍司令部壕の第一坑口です。
沖縄戦の際、首里城地下に陸軍司令部がありました。
坑口は全部で5カ所といわれていますが、現在は第1と第5のみが確認できるようです。
この場所には戦況が悪化するまで司令部を置いていましたが、後に放棄し南部へ後退していきます。
✅第32軍司令部壕内
司令部壕内で十分な生活ができる設備はあったようですが、湿気が酷かったとのこと。
沖縄では陸上でも湿気がすごいのに、地下ならもっとヤバいことでしょう。
司令部壕の近くに通信所跡もありますが、特に以前と変わらず。
✅通信所跡
今回は時間の関係でこんなところで退散。
以前の姿を知っているからか、今の姿はやはり味気ないものがありました。
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