名称 | 日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑 | |||
住所 | 〒904-1203 沖縄県国頭郡金武町屋嘉 国道329号 |
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解説 | 第二次世界大戦の際、米軍は捕縛した日本兵をこの場所に収容していた。 一時は人数が増えすぎた為、約3000人がハワイに移送された。 |
難度 | ||
A |

「屋嘉ビーチ前」バス停の横に碑があります。
今日は沖縄県国頭郡金武町にある「日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑」だべ

ポチ太郎

ハチ公
案内看板などが全くない碑です!
金武町の国道329号線沿いの「屋嘉ビーチ前」バス停付近には、戦時中に米軍が建てた収容所「日本軍屋嘉捕虜収容所」がありました。
沖縄戦の時、生存者や捕虜を集めた収容所は沖縄県各地にありました。
民間人は各地の収容所に数日収容した後に沖縄本島中部の野嵩・安谷屋・越来などの収容所に移送していました。
この屋嘉にあった収容所は主に軍人を収容していた場所でした。
各地で収容された軍人は、この場所に集められて収容されたといいます。
日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑
第二次世界大戦中(昭和20年)米軍はこの地に捕虜収容所を設け、投降した日本軍将兵約7000人を収容して厳しい監視下におかれた。
一時捕虜の数が増え約3000人がハワイに移送された。
その時の将兵等はP.Wと呼ばれ敗戦の悲哀の中から強度出身の一兵士により「屋嘉節」が作られた発祥の地でもある。
この収容所は1946年(昭和21年2月)閉鎖となり米軍保養所となって1979年(昭和54年)8月31日全面返還されるに及んだ。【碑文より引用】
「P.W」は「Prisoner-of-War」の略だべ
民間人は「CIV(civilian)」とされたべ
民間人は「CIV(civilian)」とされたべ

ポチ太郎

ハチ公
上着の背中にペンキで書かれていました!
日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑

屋嘉節
一、なちかしや沖縄 戦場になやい 世間お万人ぬ袖ゆ濡らち
二、涙飲でぃ我んや恩納山登てぃ 御万人とぅ共に戦凌じ
三、あわり屋嘉村の闇の夜の鴉 親うらん我身ぬ 泣かんうちゅみ
四、無蔵や石川村 茅葺きの長屋 我んや屋嘉村の砂地枕
五、心勇みゆる四本入り煙草 さみしさや月に流ちいちゅさ
二、涙飲でぃ我んや恩納山登てぃ 御万人とぅ共に戦凌じ
三、あわり屋嘉村の闇の夜の鴉 親うらん我身ぬ 泣かんうちゅみ
四、無蔵や石川村 茅葺きの長屋 我んや屋嘉村の砂地枕
五、心勇みゆる四本入り煙草 さみしさや月に流ちいちゅさ