1921年と1930年、激動の世界の中で生きる日本。
様々な思惑の中で’’原敬’’、’’浜口雄幸’’の2人の首相が凶刃に倒れました。
その舞台となった場所が「東京駅」なのです。
原 敬(1856年3月15日-1921年11月4日)
1856年3月に盛岡に生まれます。
明治3年に藩校’’作人館’’(現:盛岡市立仁王小学校)の修文所に入り国学などを学び、後に東京へ上京しました。
上京後は南部家が盛岡出身者のために設立した英学校’’共慣義塾’’で学ぶが、学資に困窮したために中途退学。
明治5年、学費があまりかからない神学校に入学し学僕となり、さらに7年には横浜にて神父の元でフランス語を習得する。
8年に一時帰郷するが再び上京、翌年には司法省法学校に入学します。成績はトップレベルだったが、同校内の食堂の賄いへの不満から発生した騒動の首謀者とされ退学処分となります。
薩摩藩士’’中井弘’’の紹介で「郵便報知新聞」に入社し、社説・評論・フランス語の翻訳などを担当するが15年には退社、立憲政党系新聞「大東日報」に入社する。ここでは主筆として活躍し、政府に接する機会も多くなったことや井上馨の支持を得て外務省に採用され、外務省御用掛兼任となります。翌年にはフランス語の実力を買われて天津領事に抜擢、清仏戦争の詳細な報告する実績を残した。その後、駐仏公使館書記官を経て22年に帰国。大臣秘書官や外務省通商局長、外務次官、駐朝鮮行使を経験するが、支持していた陸奥宗光の死去や嫌いだった大隈重信の入閣を契機に外務省を辞めて’’大阪毎日新聞’’の編集総理、翌年には社長となる。
33年、伊藤博文により立憲政友会が結成された際には社長を辞めて政友会幹事長に就任、第4次伊藤博文内閣では逓信大臣(逓信省:交通・通信・電気等を幅広く管轄する)に抜擢される。
44年の西園寺内閣、大正2年の山本内閣では内務大臣を務め、3年には西園寺公望の後任として党総裁となった。
そして、7年には米騒動により倒れた寺内内閣の後任として遂に原内閣が誕生し、’’平民宰相’’として人気を得たが、第一次大戦後の財政悪化や普通選挙拒否などから批判が高まり、1921年(大正10)11月4日に東京駅にて暗殺されてしまう。
原敬が東京駅を訪れた際、柱の陰から大塚駅転轍係(線路のポイントを切り替える人)だった中岡良一により刺殺されます。
短刀による刺殺でほぼ即死であったとされます。
犯人は当初は無期懲役の判決を受けますが、減刑に原型を重ね1934年には釈放されています。
事件は1921年のことなので、約13年後ですね。
東京駅のJR丸の内南口が事件現場となります。