名称 | 知覧特攻平和会館(知覧特攻基地跡) | |||
住所 | 〒897-0302 鹿児島県南九州市知覧町郡17881 |
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解説 | かつてこの地にあった「知覧特攻基地」を主題においた記念館。特攻隊員からの手紙や遺品などが展示されている。周囲には復元された三角兵舎、現存している油脂庫や弾薬庫がある。 | 難度 | ||
A (行きやすい) |
太平洋戦争末期、開聞岳を望む知覧の地に「太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所」が建てられました。
これが「知覧特攻基地」の源流です。
ちなみに太刀洗(タチアライ)というのは福岡県にあります。
今は筑前町の一地域でしたが、かつては太刀洗飛行場が存在し、知覧と同様に多くの特攻隊員が飛び立ちました。
太刀洗にも「筑前町立太刀洗平和記念館」が存在しています。
さて、陸軍大刀洗飛行学校知覧分教場は1941年12月に完成し、翌年の42年1月には最初の陸軍少年飛行兵・学徒飛行兵・特別操縦見習士官ら78人が配属されました。
滑走路のために約180万㎡の平原を整地し、付近には鉄筋造りの格納庫や用水タンク、誘導用の道路も建設されました。
後に米軍からの攻撃が激しくなってくると防空壕や、戦闘機を守るための掩体壕が追加で建設されています。
本来、分教所は航空技術の教育と訓練のために造られた場所でした。
戦況が悪化してくる1945年初めには日本本土や沖縄に空襲がされるようになってきます。
また、ドイツが降伏してからは攻撃が日本に集中するようになり、日本はさらに苦境にたたされていきます。
そして陸軍航空隊の攻撃手段が「敵艦船に突撃する」ことが主軸になっていくのです。
これと同時にこうした分教所の組織再編が行われ、太刀洗飛行学校知覧文教所は第六航空軍隷下の「第七飛行団」となり、「知覧特攻基地」が誕生しました。
この第六航空軍隷下で編成された特別攻撃隊は「振武隊」と呼ばれました。
✅知覧特攻平和会館
九州の中でも鹿児島県は本土最南端ということもあり特攻の拠点となり、各地から飛び立った航空兵が鹿児島を経由し主に沖縄方面へ飛び立ちました。
その総数は1000人弱と言われています。
1987年、かつての知覧基地を伝えるために開館されたのが「知覧特攻平和会館」で、特攻隊員の関係書類・遺書・遺影などが約4000点展示されています。
中でも電子データで閲覧できる最後のお手紙には、見る人それぞれに様々な感想が出てくると思います。
現在では「人生これから」という年代に飛び立っていかなければいけなかった若者たち。
戦争をどう思っていたのでしょうか。
✅特攻勇士の像
知覧基地 特攻隊の歌
- ああ薩南の此の地より
敵撃滅の命を受け
まなじり決し若人が
翔び立つ姿尊しや
その名特別攻撃隊- ああ明日はなき此の命
胸に秘めたるその覚悟
祖国の平和念じつつ
南の空に翔び立ちし
その名特別攻撃隊- ああ今此処に
銅像の勇士の姿仰ぐとき
国を護りしつわものの
勲は永久に薫るらん
その名特別攻撃隊
✅一式戦闘機「隼」
’’特攻の母’’として知られる鳥濱トメさんの視点から、若き特攻隊員の無残にも美しい青春を描いた、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年5月12日公開作品、制作総指揮・石原慎太郎)で実際の撮影に使用された「隼」。
✅復元された三角兵舎
✅三角兵舎内部
三角兵舎は、特攻隊及び護衛隊の隊員が暮らした場所です。
炊事場や風呂場も併設してあり、身の回りの世話は知覧国民女学校の学生’’なでしこ隊’’が行っていました。
本来あった場所は、知覧特攻平和会館から南西付近にありました。