黒しばわんこの戦跡ガイド

茨城県稲敷郡阿見町にある「予科練平和記念館」

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予科練平和記念館

名称 予科練平和記念館
住所 茨城県稲敷郡阿見町
解説 かつての茨城県稲敷郡阿見町で航空機搭乗員育成のための’’海軍飛行予科練習生’’が訓練に取り組んでいました。
予科練生たちの日常を知ることのできる予科練平和記念館が現在公開されています。
難度
A

今回は茨城県稲敷郡阿見町にある「予科練平和記念館」だべ

ポチ太郎
ポチ太郎
ハチ公
ハチ公

戦時中、この地で若者が訓練で汗を流していました!!

茨城県稲敷郡阿見町の霞ヶ浦のほとりに「予科練平和祈念館」という施設があります。
この阿見町には戦時中に「霞ヶ浦海軍航空隊」が設置されていた他、若年から航空技術を習得させるための制度である「霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部」が置かれていました。

航空隊が設置されると、それまで田園地帯が広がっていた阿見町に郵便局や通信設備、鉄道網などが開通していき、町全体が発展していきました。
当時の予科練で訓練に取り組む青年や阿見町についての展示が「予科練平和祈念館」がされています。

海軍は日露戦争以降、海外に負けない軍設備の近代化を目指していました。
その中でも’’航空機’’の必要性も問われており、航空技術研究所を神奈川県の追浜に設けて飛行訓練を開始しました。
その後、海軍初の航空隊である「横須賀海軍航空隊」を誕生させました。
また若年者を早くから技術を習得させることによって、熟練した航空機搭乗員の育成をすることを目指しました。
’’海軍飛行予科練習生’’という制度を作り、横須賀海軍航空隊の組織内に’’横須賀海軍航空隊予科練習部’’を設置しました。
14歳から17歳までの少年を全国から選抜し、予科練第一期生の倍率は73倍にも及びました。
この予科練生がだんだんと増えてきたことによって、予科練が霞ヶ浦海軍航空隊にも移され、「霞ケ浦海軍航空隊飛行予科練習部」が出来上がりました。
予科練制度開始から終戦までで約24万人が入隊し、その内の2万4千人が戦地へ出陣しました。
その中でも戦死者は約1万9千人にも及んでおり、特別攻撃隊としても出撃していました。

茨城県阿見町は霞ヶ浦に面し畑が広がっている土地でしたが、”霞ヶ浦海軍航空隊”という航空基地が設置され、後には海軍飛行予科練習部、いわゆる’’予科練’’が横須賀から移転してきて以来、風景が様変わりしました。
翌年には’’土浦海軍航空隊’’が設置され、海に面していることはありませんが海軍と縁深い歴史をもつ町となり、現在も自衛隊の防衛用地となっており’’土浦駐屯地’’や’’霞ヶ浦駐屯地’’が置かれています。

霞ヶ浦海軍航空隊の発足により、阿見町は田畑の広がる土地から発展を遂げています。大正10年には阿見郵便局が開設された他、電信電話の架設も行われました。また交通網も土浦から現在は合併された江戸崎を繋ぐ乗り合いバスが運行を開始した他、土浦駅から霞ヶ浦海軍航空隊を繋ぐ道路が開通しました。鉄道網に関しても、土浦から阿見間に常南電気鉄道が開通しました。こうした交通の発展によって、軍人・施設建設業者・商人の出入りにより人口も急増し、’’新町’’という商店街や飲食店などが集まった場所も形成されていきました。

’’海軍飛行予科練習生’’の制度が始まった当初は、高等小学校終了以上・満14歳以上20歳未満・学力と体力が優秀という条件のもと、飛行兵を採用・育成して航空隊の中堅幹部に育てていました。しかし大戦が本格化し、航空兵の不足のために旧制中学校4学年1学期終了以上という条件で’’甲種飛行予科練習生’’という制度を新たに設け、以前の条件により採用された航空兵は’’乙種飛行予科練習生’’と改めました。この甲種飛行予科練習生は現在の高等学校レベルの学力は保証されているため、乙種に比べると教育期間は短くなっています。また後に’’丙種飛行予科練習生’’も設置されます。これは海軍部内の下士官から募集しました。

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ポチ太郎

ポチ太郎

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