沖縄陸軍病院第二外科壕
今回は沖縄県糸満市糸洲に残る「沖縄陸軍病院第二外科壕」だべ
糸洲第二外科壕とも称されます!!
那覇市から国道331号線を南下していくと、糸満市糸洲という集落を通ります。
この周辺には時の県知事である島田叡が沖縄県庁が解散されたといわれる「轟の壕」や、小池勇助軍医が率いて多くの生徒が生き延びることが出来たふじ学徒隊が滞在した「糸洲の壕(ウッカーガマ)」など多数の壕が残っています。
多数残るガマの中の一つに「沖縄陸軍病院第二外科壕」があります。
沖縄を守備していた第32軍の中の医療部隊である「沖縄陸軍病院」という部隊が使用した場所で、負傷した兵士達を洞窟の中で治療しました。
しかし、この洞窟に滞在していた頃には薬などは殆ど残っておらず、満足いく治療活動は行われていませんでした。
沖縄陸軍病院は元々は那覇市に展開していましたが、空襲や戦況の悪化の影響から那覇市・南風原町・糸満市と場所を移してきました。
この糸満市に移ってきたのは、沖縄を守備した第32軍の司令部があった首里の陥落も時間の問題となっていた時期でした。
5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕とし、第一外科壕、第三外科壕を伊原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒とも配属されていました。
「沖縄陸軍病院山城本部壕」設置看板より引用
廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ分散した各外科壕を統一しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
沖縄陸軍病院第二外科壕は、周辺が糸洲集落であることから「糸洲第二外科壕」とも呼ばれます。
沖縄陸軍病院第二外科壕にはひめゆり学徒隊という女子学生で編成された部隊も滞在していました。
「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の15歳から19歳の女子生徒と学校教員で編成されており、沖縄陸軍病院のガマに入り、主に負傷兵の看護活動(包帯交換・食事の補助・汚物の処理・飯上げ・食料調達・水汲み・死体埋葬・伝令)を行いました。
しかし、病院壕に行われた馬乗り攻撃によりひめゆり学徒隊の多くの生徒は命をおとしました。