本部防空監視廠
今日は沖縄県国頭郡本部町に残っている「本部監視廠跡」だべ
沖縄県には11の防空監視廠がありましたね!
戦争中、飛来する飛行機や襲来する艦船を見張る為に「防空監視哨」が造られました。
かつての沖縄県には11(那覇・糸満・本部・金武・与那城・国頭・嘉手納・宮古・八重山・西表・久米島)の監視哨がありました。
現:うるま市の勝連半島の与那城にある「与那城監視哨」でも確認できる一方、糸満では跡地になっているなど、現在残っている監視廠はとても貴重な戦争遺構になっています。
この本部町の監視哨は、特別養護老人ホーム本部園の敷地内に残っています。
万が一のため、事前に問い合わせをすることをお勧めします。
本部防空監視哨
監視哨とは、戦時中情報収集の目的で、敵の飛行機や潜水艦などの来襲を監視、発見し(その位置、方向、機数、高度、敵味方の識別等の情報を)警察を通じて守備軍(最初は沖縄連隊区司令部)へ報告して防衛に役立てる為の施設である。本部に監視哨が設置されたのは昭和10年代で、当初は谷茶の大瀬(現:谷茶公園のお宮)で立哨し、後(年代不明 平良 専哲氏談)海岸段丘上の展望のよい現在地にコンクリート造り監視哨がつくられた。(当時、渡久地警察署で監視指導係をした新垣康正巡査部長は昭和18年に建造されたと証言)当時は2階建てで、1階は監視要員の待機所、2階が監視所となっていて、現在1階部分は土に埋まっている。監視哨員は、崎本部、健堅、辺名地(大浜・谷茶を含む)、渡久地(東・大嘉陽・野原を含む)、伊野波、並里、浜元、清崎地域の優秀な若者を6班に編成し(1班は6名程度)、1週間に1日ずつ勤務した。双眼鏡を持ち、飛行機や潜水艦を発見するため、5~6人交代で24時間監視体制がとられ、電話は渡久地警察署に取り次ぎ報告した。昭和19年10月10日米軍による空襲(10・10空襲)の時には、渡久地警察署で電話取り次ぎに当たっていた監視員の一人が爆撃にあい犠牲になった。沖縄戦とともに監視哨もその任務を終えた。この本部監視哨は且つて沖縄に在った11の監視哨のうち、その原型が残っている数少ない戦争遺跡のひとつであり、戦争の歴史的遺産として今後の教訓に資するため、本部町の文化財に指定するものである。
本部町教育委員会
うるま市にある「与那城監視哨」に比べると、かなり状態が良い状態で残っています。
外装はとても綺麗で、弾痕らしき跡は1か所のみ確認できました。
崖の上にある監視哨の窓からは本部町の海が見渡せ、この地に監視哨が造られた理由が分かります。