宇品港
今回は軍都広島を支えた「宇品港」だべ
今は広島港って呼ばれていますね!
広島市の南に「広島港」と呼ばれる港があります。
この港から江田島や宮島へ向かう船が出航しております。
この港はかつては「宇品港」と呼ばれていました。
宇品港が出来たのは1890年代の日清戦争まで遡ります。
明治維新によって軍隊が編成され、全国に6つの鎮台(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)が置かれ、後に鎮台は「師団」と改称されます。
鎮台が置かれてから、広島の街には軍関係の建物が建てられ、これは第二次世界大戦頃まで続きます。
現在では想像できませんが、広島は軍都でした。
軍都となった広島には、関西方面から「山陽鉄道」という鉄道路線が開通していることや、現在は広島港と呼ばれる「宇品港」という大きな港があることから、国外への物資や人員輸送を担うことになります。
山陽鉄道の広島駅(現:JR広島駅)から宇品港(現:広島港)までは、直線距離で5㎞ほど離れています。
そこで広島駅から宇品港まで軍用鉄道が敷設されることになりました。
工事は大急ぎで行われ、期間はわずか17日間という短い期間でしたが、宇品港につくられた「宇品駅」は積み下ろしを迅速に行うためにホーム長が560mに及ぶなど工夫がありました。
戦前・戦中・戦後を支えた軍用鉄道でしたが1986年に廃線となり、線路の一部が宇品波止場公園に展示されています。
軍用鉄道の駅
広島-安芸愛宕-大須口-東段原-南段原-上大河-被服支廠前-比治山-下大河-丹那駅-下丹那-宇品
(戦前・戦中のみ、戦後に追加された駅も有り)
宇品線は、宇品港が軍用港としてクローズアップされた日清戦争時の明治27年に、山陽本線完成に併せて施設された旧陸軍の軍事輸送専用線で、明治39年3月制定の鉄道国有法により国鉄に移管されたものです。広島ー宇品間5.9キロメートルを着工からわずか17日間で完成。さらに、起点の広島駅には軍用列車の引込線が整備され、終点の宇品駅には陸軍運輸部宇品支部が設けられました。
太平洋戦争が始まると、兵士や兵器を積み込んだ軍用列車が夜昼なく30分おきに入るほど、慌ただしい毎日でした。宇品駅の軍用ホームが560メートルと当時としては日本一の長さを誇っていたことからも、宇品線の果たした役割の大きさをうかがうことができます。
広島に原爆が投下された昭和20年8月6日には、宇品ー南段原間を3往復し、約3000人の負傷者を宇品凱旋館に収容しました。
軍用線の役目を終えた戦後は、貿易港として生まれ変わった広島港の動脈として、地域住民の足として利用され、広島市の復興を支えてきました。しかし、道路網の整備が進むにつれて、貨物・旅客数は減少し始め、ついに昭和47年に旅客列車は廃止され、1日1往復のみの貨物専用線となったのです。
そして、昭和61年9月30日、宇品線は92年の歴史に終止符を打ち、記念としてここに形を残すこととなりました。
案内看板より引用
宇品波止場公園には「桟橋の一部」も展示されています。
明治22年に築港された宇品港は、日清・日露戦争を契機に,昭和20年まで主に旧陸軍の軍用港として利用されてきました。
案内看板より引用
その中心的役割を果たしたのが、明治35年に軍用桟橋として建設されたこの六管桟橋です。
この桟橋は、戦争中は多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎え,広島の歴史を見守ってきた貴重な証言者です。
また築港当時の唯一の施設であり、歴史的、建築的にも高い価値があります。戦後は、海上保安庁の船舶の係留に利用されてきましたが、1万トンバースの増設に伴い、護岸としてのその姿を残しています。
宇品港の名称が改められて広島港と呼ばれるようになってからも、ずっとその歴史を刻んできたこの桟橋は広島の歴史そのものです。
桟橋の石積みを当時の護岸として保存し一部を展示しています。