名称 | 「艦砲ぬ喰ぇ残さー」の歌碑 | |||
住所 | 904-0304 沖縄県中頭郡読谷村楚辺1909 |
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解説 | 「艦砲ぬ喰ぇ残さー」は「かんぽうぬくぇーぬくさー」と読む沖縄方言。 意味は「艦砲射撃の食い残し」であり、激しい艦砲射撃を生き残った人々を「食べ残し」と表現し、戦禍を生き残った人々の気持ちを歌詞に表現している。 |
難度 | ||
A |
沖縄県の中部、読谷村に「ユーバンタ浜」というビーチがあります。
楚辺には都屋漁港がありますが、それ以外は古い住宅が並んでいるので観光客はほとんどいません。
そんなユーバンタには「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑があります。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は「かんぽうぬくぇーぬくさー」と読みます。
その意味としては「艦砲の食べ残し」となる沖縄方言です。
激しい艦砲を生き残った人々の気持ちが歌詞になっています。
歌詞には方言が使われていますが、訳も記載されています。
✅「艦砲ぬ喰ぇー残さー」之歌碑
✅比嘉恒敏
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の作者である「比嘉恒敏(ヒガコウビン)」の故郷が読谷村楚辺であることから、この場所に歌碑が造られました。
比嘉恒敏は戦争によって家族を亡くしています。
疎開先の大阪に呼び寄せた妻と次男を空襲で、父親と長男も疎開船「対馬丸」が敵国に撃沈され亡くなりました。
終戦後は沖縄に戻り再婚、時計修理工として働く傍ら、妻との間に生まれた4人の娘さんと「でいご座」として県内で芸能活動を行っていました。
しかし1973年、巡業の帰りに宜野湾市大山にて飲酒運転の米兵の車に追突され、この事故により比嘉恒敏と妻のシゲさんが亡くなりました。
生前から4人の娘さんらは三線を教わっており、姉妹で「でいご娘」と称していました。
比嘉夫妻の死後、「でいご娘」により父の遺作である「艦砲ぬ喰ぇー残さー」が歌われ、県民にも広く知られている民謡となります。
艦砲ぬ喰ぇぬくさー
1.
若さる時ね 戦争ぬ世
若さる花ん 咲ちゆーさん
家ん元祖ん 親兄弟ん
艦砲射撃ぬ 的になてぃ
着るむん 喰えむん むるねえらん
スーティーチャー 喰でぃ 暮ちゃんや
うんじゅん 我んにん 汝(いや)ん 我んにん
艦砲ぬ喰ぇー残(ぬ)くさー
2.
神ん仏ん たゆららん
畑やカナアミ 銭ならん
家小や風ぬ うっ飛ばち
戦果かたみてぃ すびかってぃ
うっちぇーひっちぇー むたばってぃ
肝や誠どぅ やたしがや
3.
泥ぬ中から 立ち上がてぃ
家内むとぅみぃてぃ 妻とぅみぃてぃ
産子ん生まりてぃ 毎年産し
次男三男 ちんなんびー
哀りぬ中にん 童ん達が
笑い声聞ち 肝とめぇてぃ
4.
平和なてぃから 幾年か
子ぬ達ん まぎさなてぃうしが
射いやんらったる ヤマシシぬ
我が子 想ゆるぐぅとに
潮水又とぅ んでぃ思れ
夜ぬゆながた 目くふぁゆさ
5.
我親喰ゎ たる あの戦争
我島喰ゎ たる あの艦砲
生りてぃ変わてぃん 忘らりゆみ
誰があの様 強いいんじゃちゃら
恨でん悔でん 飽きじゃらん
子孫末代 遺言さな
✅歌碑の後ろには本島中南部が見渡せます
✅ユーバンタ浜
シュノーケリングすれば素晴らしい景色が見れそうなユーバンタ浜ですが、海を正面に右側の岩壁には日本軍により構築されたトーチカ跡があります。
潮の加減によって行ける時間が限られています。
楚辺の住宅街の中にある「ティラヌ壕」は、米軍上陸後初めての難民収容所として使用された場所とされています。
都屋漁港内にもトーチカ跡があります。