筆架山の高射砲陣地跡
今日は沖縄県那覇市金城にある「筆架山の高射砲陣地跡」だべ
今も昔も景色がよい場所です!!
那覇西高校と奥武山公園の間に「がじゃんびら公園」という東西に長い公園があります。
「がじゃんびら」というのは奥武山公園付近の「垣花」から、自衛隊の駐屯地である「安次嶺」付近まで続いている坂の名称で、「がじゃん」は蚊、「びら」は坂の方言です。
坂にあるので公園内も坂道や階段がかなり多く、遊具はほとんど無いので子供よりもウォーキングに利用している方が多いです。
そんな公園の西の端、安次嶺側の高い場所に円形の広場があります。
この場所には日本陸軍の「独立高射砲第27大隊」の高射砲が据えられていました。
台座以外は特に高射砲に関する遺構はなく、何も知らなければただの広場です。
周囲を見てみると、垣花台地の高台にあるこの公園からは、那覇軍港や三重城跡、那覇空港まで見渡すことができます。
昔は現在のように高い建物は無いので、さらに遠くまで見渡せたことでしょう。
高射砲が置かれた理由も分かりますね。
ガジャンビラ(那覇市垣花町3丁目)
那覇垣花(なはかきのはな)から小禄安次嶺(やろくあしみね)にいたる坂道の名称。
付近一帯を指す地名にもなっている。琉球王国時代、中国からの使節(冊封使)は、この地をさして『儀間山(ぎまやま)』・『筆架山(ひつかざん)』と記しているが、1877年(明治10)刊行の『沖縄志』(伊地知貞馨著)の那覇港図には、『蚊坂(ガジャンビラ)』とあり、ガジャンビラと呼ばれていたことがわかる。
名称の由来は定かではないが、『南島風土記』(東恩納寛惇著)は、坂の付近に住む人名または屋号をとって、『我謝の坂(ガジャヌヒラ)』から転訛したものではないかと記している。
一方、那覇の民話は『昔、中国から持ち帰ってきた蚊が、この坂の上で逃げてしまい、ここから琉球国中に広まった』と伝えている。
1905年(明治38)に始まった垣花と糸満(いとまん)村を結ぶ県道工事により、ガジャンビラの坂道は整備され、1918年(大正7)には馬車軌道も敷設された。
坂の両側や付近の丘陵には松が生い茂り、また、坂の頂上からのすばらしく、眼下に見下ろす那覇街並みは、絵画や絵ハガキの題材にもなっている。
沖縄戦の後、坂一帯は米軍基地となったが、1972年(昭和47)の日本復帰後、ガジャンビラを含む旧県道は、那覇糸満間の幹線道路国道331号線として整備された。
1984年(昭和59)には国道331号線山下高架道開通により、ガジャンビラの一部は旧道となった。2003年3月 那覇市市民文化部歴史資料館
戦中、垣花台地の隣にある那覇軍港に物資が集まってきました。
しかし、それゆえに空襲のターゲットとなってしまうために高射砲が設置されました。
この場所は「独立高射砲第27大隊第1中隊」が配備されていました。
独立高射砲第27大隊は1944年5月に山口県で編成、6月に那覇に上陸、8月には現地民を招集しました。
戦時には南風原町や糸満市与座、八重瀬町具志頭、最終的には糸満市大度に第27大隊は集結しました。
しかし、戦いの中で部隊の多くが戦死しボロボロになり、当初72門あった88式7糎半野戦高射砲は、大度に来る頃には1門になっていました。
最期は残存兵で切込攻撃をおこないました。
美空ひばりの歌碑があります。
前に立つと音声が流れるハズ…。(流れませんでした)