読谷村に残る掩体壕
今回は沖縄県中頭郡読谷村にある「掩体壕」だべ
掩体壕の隣には「義裂空挺隊玉砕の地碑」もあります!!
1943年の夏、北飛行場(読谷飛行場)は旧陸軍本部により計画されました。
日本軍は要地買収の指令を村役場に提出、喜名・座喜味・伊良皆・楚辺・上地・波平にまたがる農耕地約360ヘクタールを買収し、78所帯を退去させます。
沖縄北飛行場(読谷山飛行場)の建設には、現在の沖縄でも大手建築・土木会社でもある「國場組」が行い、接収した農耕地の測量や滑走路・掩体壕・誘導路が造られました。
当時の予算2300万円がつぎ込まれ、工事には沖縄全域から島民が集められて行われ、2000mの東西・南北に及ぶ2本の滑走路が敷設されました。
大金がつぎ込まれた飛行場でしたが、度重なる空襲により飛行機もろとも飛行場は破壊されてしまいます。
日本軍は飛行場の破壊・放棄を命じ、放棄された読谷飛行場を進軍してきた米軍が補修、運用を開始しました。
掩体壕は中身のくりぬかれたかまぼこのような形をしていて、中に航空機を収容することで敵機からの攻撃を防ぐものです。
当初は10基ほどの掩体壕が造られたようですが、崩壊や解体のため1基しか残っていないようです。
そのため、現在では風化が進んで倒壊することを防ぐ為、内部で補強されています。
1943(昭和18)年、旧日本軍によって沖縄北飛行場建設が計画・実施された。その翌年、軍用機を攻撃から保護する施設として建設されたのが掩体壕である。
読谷村教育委員会2018年設置
証言によると、ドラム缶を積み上げ、その上に土を盛って叩き固め、半円状の原型を造り、セメント袋をかぶせてコンクリートを流し込み、十分に乾燥したところで中のドラム缶や土を取り出すという方法で造られたと言われている。
飛行場跡一帯には、1978(昭和53)年頃まで7基の掩体壕が残っていたが、現在はこの1基のみとなっている。
掩体壕は、この地が旧日本軍の飛行場であったという史実と、沖縄戦を伝える生き証人として、2009(平成21)年1月22日に村指定史跡(沖縄戦に関する史跡)に指定された。
【規模:幅約20m,奥行約10m,高さ約5m】
義裂空挺隊は、米軍に占拠された嘉手納飛行場と読谷飛行場の奪還のために戦った空挺部隊です。
1945年5月24日、読谷飛行場へ強行着陸、駐機場の飛行機を破壊するなどが求められました。
しかしそれは航空機での特攻と同様に助かる見込みのない捨て身の攻撃でした。