奥村重油倉庫
今回は小笠原諸島父島に残る「奥村重油倉庫跡」だべ
日本海軍の重油庫です!!
本土から約1000㎞、太平洋のただ中に「小笠原諸島」があります。
父島・母島をメインにいくつもの島で構成されています。
戦中の小笠原諸島では特に父島と母島には、日本本土とサイパンなどの北マリアナ諸島の途中に位置するため、陸軍・海軍の部隊が配備されて砲台や陣地壕などが多数構築されて要塞化されています。
陸軍は「小笠原兵団(兵団長:栗林忠道 陸軍中将)」、海軍は「第7根拠地隊(後に父島方面特別根拠地隊に改称)」の他にいくつかの警備隊や通信隊がいました。
1944年7月に日本軍はサイパン島での戦いに敗北、米軍はより近い場所から本土爆撃をする為、小笠原諸島の一つである「硫黄島」が次の標的となります。
硫黄島には既に飛行場もあり、奪われてしまえばより容易に日本本土を爆撃されてしまいます。
「硫黄島の戦い」では、米軍と日本軍の地上戦が起こり1945年3月には兵団長である栗林忠道陸軍中将は戦死、硫黄島は奪われてしまいました。
父島・母島では地上戦は行われませんでしたが、度重なる空襲にみまわれています。
小笠原高等学校の直下、都道沿いにカマボコ型の鉄の扉が確認できます。
これは日本海軍の重油を貯蔵していた重油倉庫で、「清瀬重油倉庫」や「奥村重油倉庫」と呼ばれるようです。
この周辺には多数の壕が確認できるのですが、そのうちの3つが重油倉庫として使用されていました。
倉庫を正面にすると、左側から5号孔・6号孔・7号孔となります。
倉庫1庫につき、3トンの重油が貯蔵可能だったようです。
貯蔵されていた重油はパイプによって海軍埠頭(現:小笠原水産センター付近)まで運ばれていました。
当然ながら中に入ることはできません。