九六式十五糎榴弾砲
今回は沖縄県中頭郡西原町の公民館に残っている「九六式十五糎榴弾砲」だべ
建物の裏手に展示されています!
西原町教育委員会中央公民館の建物の裏手に「九六式十五糎榴弾砲」が展示されています。
西原町内の陣地壕跡から発見された物で、比較的原型をとどめた状態となっています。
当時の西原町は、第32軍司令部が近いこともあって日本軍と米軍の激しい戦いが繰り広げられました。
代表的な戦いに「運玉森の戦い」があり、糸満市新垣で玉砕した「第24師団歩兵第89連隊」が、西原町と与那原町の境にある「運玉森」という丘陵をめぐって戦いました。
西原町東部の海岸沿いには「小那覇飛行場」が建設されており、その建設には地域住民が動員されたり、周辺の製糖工場のトロッコやレールが徴用されました。
しかし、この飛行場があったためか「10・10空襲」でも西原町周辺は小那覇飛行場はもちろん、製糖工場や集落にも甚大な被害がありました。
地上戦が始まってからは現在の沖縄カントリークラブ近くにある運玉森(方言でウンタマモー・ウンタマムイ)では激戦が展開され、戦後になっても不発弾の自然発火により山火事も発生しています。
九六式十五糎榴弾砲
(きゅうろくしきじゅうごせんちりゅうだんほう)
この榴弾砲は、去る太平洋戦争の沖縄戦において、日本軍が使用した大砲で、平成16年12月、西原町幸地集落南西部の陣地壕跡から発見された。西原町は、この榴弾砲が原型を留めないほどにすさまじい日・米両軍の戦闘がくりひろげられた激戦地で、当時の住民の約47%の尊い命が犠牲になった。破壊された榴弾砲をこの地に展示することにより、戦争の悲惨さ、愚かさを認識するとともに戦争のもたらす恐ろしさ、悲しさを語り継いでいく手がかりとしてほしい。二度とあの忌まわしい戦争をおこしてはならないという誓いと、平和の尊さを実感し、更には平和教育の資料として役立つことを願い、終戦60年の節目にあたりこの榴弾砲を展示する。
平成17年8月15日 西原町