161.8高地陣地
今回は沖縄県中頭郡中城村に残る「161.8高地陣地」だべ
米軍からは「ピナクル・ロック」と呼ばれたようですね!
中城村北上原に標高約161mの丘陵があります。
この場所は沖縄戦時には日本軍が前哨基地を築いた場所で、現在では「161.8高地陣地」と呼ばれています。
また、当時の米軍側からは「ピナクル・ロック」と呼称されていたようです。
北上原の信号を沖縄県消防学校方面に進みます。
消防学校を通り過ぎ、坂を登っていくと左側に階段が見えてきます。
山の中にある階段にしては綺麗に整備されており、約10分ほどで監視哨にたどり着くことが出来ます。
161.8高地陣地
【中城村教育委員会】
現位置は、1945年に日本軍が築いた161.8高地陣地(各種防御施設群)の中に位置しています。 161.8高地陣地は、1945年1月29日にこの地に移駐してきた独立歩兵第14大隊第1中隊が、現在の沖縄県立消防学校の北東側に位置する小高い山を利用して築いた陣地で、機関銃陣地や、それら各防衛拠点を結ぶ地下道や交通壕、地下退避壕、鉄条網、地雷原などで構成されていました。 1945年4月1日に米軍が読谷と北谷の海岸に上陸し、4月5日には161.8高地陣地も米軍第7師団第184連隊第1大隊B・C中隊の攻撃を受けるようになります。当時守備についていたのは、独立歩兵第14大隊の第1中隊(第2小隊欠)、機関銃1個小隊、無線1個分隊の約150名でした。守備隊は圧倒的戦力の米軍に対し善戦し、翌6日も米軍の猛攻を7〜8回撃退しました。しかし日本軍の損害も大きく、守備隊は6日の夜のうちに南側の142高地に撃退したため、161.8高地陣地をめぐる戦闘は終わりを迎えることになりました。 この解説版の後方(東側)にはいまでも日本軍の設けた交通壕の跡が残っており、さらに現位置から北東側約160mの場所でも監視所や壕が良好な状態で残されているのを見ることができます。
監視哨の下には壕がありますが、現在では入ることが出来なくなっています。
現在では内部の状況は分かりませんが、以前は現在ある階段に沿うような形で壕が掘られていたようです。
途中にそれらしいものがないか探してみましたが、それらしい痕跡はありませんでした。
配置と構造
161.8高地陣地は、標高120~160mの独立丘全体を利用して築かれています。1945年1月頃、日本陸軍独立歩兵第14大隊と徴用された地域住民により機関銃や迫撃砲などの火力拠点、それらを結ぶ交通号やトンネルが構築されました。丘の中央部には大岩があり、頂部に監視哨、根元に壕が設けられています。監視哨の屋根は軽便鉄道の鉄材や松の木を骨組みとし、コンクリートを流し込んで造られており、壁面は自然石をモルタルで接着し、擬岩風に仕上げています。壁面の南西部には、出入口を設け、北東(北谷方面)、北西(宜野湾方面)、南東(中城海岸方面)の3ヶ所に監視窓が設けられています。岩の根本に設けられた壕は、監視哨を造るため大岩を削った際に発見された自然洞穴を利用しており、内部には銃眼や外部へ通じるトンネルなどが設けられています。
陣地をめぐる戦闘
1945年4月1日、沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍のうち、アメリカ陸軍第7師団に所属する。第184連隊第1大隊は、南へと進攻し、4月5日には161.8高地陣地に至り同地を守る日本陸軍独立歩兵第14大隊の一部との間で戦闘が開始されました。米軍は同地を「ピナクルロック(尖峰岩)」と呼称し、両軍の間で一進一退の激戦が繰り広げられましたが、米軍の猛攻により日本軍の損耗も著しくなったため、6日夜に同陣地から日本軍が撤退し161.8高地陣地をめぐる戦闘は終了しました。
中城村では、沖縄戦の実相を継承し平和の尊さを後世に伝えていくため、平成26年3月26日に「161.8陣地高地陣地」を中城村指定文化財(沖縄戦に関する遺跡)に指定しました。