嘉数高台公園内の碑
今回は沖縄戦宜野湾市の嘉数高台公園内にある「慰霊塔・慰霊碑」だべ
丘の上に建てられているんですね!
1945年4月1日、沖縄本島中部から米軍が上陸して沖縄本島での地上戦が始まりました。
沖縄本島を守備する第32軍は、兵力不足から本島南部地域に部隊を集中配備しました。
宜野湾市嘉数地域は上陸地点から首里にあった第32軍司令部までの通過点にあり、上陸した米軍と日本軍が激しい戦いを繰り広げた場所として知られます。
嘉数高地として日本軍が陣地構築した場所は、現在では嘉数高台公園として整備されています。
沖縄戦では嘉数集落は、沖縄戦の中でも激戦の場所となりました。
ここで戦ったのは日本陸軍の第32軍隷下の第62師団歩兵第63旅団と歩兵第64旅団隷下部隊です。
1945年4月1日の米軍上陸から約1週間後の4月7日頃から約2週間、嘉数高地の戦いは続きました。
日本軍は圧倒的な兵力・物量の差がありつつも、丘陵地帯を利用した反斜面陣地を構築してその差を補いました。
この部隊の兵員補充地の関係から、この地では京都・福井出身者が多くいました。
嘉数高台公園の戦跡
1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島の中部西海岸から上陸し、南下した米軍は、嘉数を中心とした戦線で、待ち構えた日本軍と最初の大規模な戦闘をはじめます。戦闘の末に、日本軍は撤退し戦線は浦添・西原・首里そして南部方面へと移りました。
嘉数住民はテラガマ、チヂフチャーガマなどの洞窟に避難していました。日米両軍の戦闘が始まる前に、南部方面へ避難した人と嘉数に残った人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなりました。
嘉数周辺と本公演には、住民が避難した洞窟や日本兵が利用した「ミーガー」、戦闘で使用された「トーチカ」、戦闘を物語る「弾痕の塀」、沖縄戦で亡くなった嘉数住人の「嘉数の塔」、戦死した京都出身者の「京都の塔」などの慰霊碑が多数点在しています。
宜野湾市The Battle at kakazu Ridge,Park
On April 1,1945,the U.S Armed Forces landed on Okinawa,Kakazu Ridge was the sight of some of the bloodiest fighting during the battle of Okinawa.japanese troops staunchly defended the ridge to try to keep the U.S.Forces from taking Shuri.The Americans finally overcame the japanese and forced them to retreat to Urasoe,Nishihara,Shuri,and further south.
The people of Kakazu took refuge in the caves,such as in Teragama and Chidefuchagama,Some Kakazu residents escaped to the southern part of the island and some remained in Kakazu.half of all Kakazu residents died during the figting.
In this park and around Kakazu.there are seberal sites that serve as reminders of what took place here,includinig the caves the civilian used to take refuge in.there is also Miga-a cistern used by japanese soldiers for drinking water,Tochka-a pillbox used to defend Kakazu Ridge,and a wall riddled with bullet with bullet holes which is an indication of just how fierce the fighting was.the tower of Kakazu is a memorial to the people of Kakazu who died during the battle.the tower of Kyoto is a monument remembering the japanese soldiers from Kyoto who died in the fighting at Kakazu Ridge.Ginowan city
嘉数の戦闘
沖縄守備軍である第32軍(球部隊)は、米軍との上陸決戦を避け、司令部のある首里を中心に西原から浦添一帯に洞窟複郭陣地(幾重にも構築した陣地)を設け、持久戦をとりました。その最前線の陣地が置かれたのが嘉数高地でした。嘉数高地には、第32軍指揮下の第62師団(石部隊)独立歩兵第13大隊が主に布陣していました。そして、1945(昭和20)年4月1日上陸した米軍は早くも4月6日には宜野湾村(当時)の南側に進出し、以後、嘉数高地を含む宇地泊~我如古~西原の棚原を結ぶ線で、日米両軍の主力による攻防戦が展開されました。
日本軍は米軍の進路に地雷を敷設し、対戦車砲・臼砲等の重火器で攻撃しました。また、急造爆雷を抱えて戦車に体当たりする肉弾戦もありました。米軍戦史には「嘉数地区で米軍が失った戦車22台というのは、沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった」と記録されています。2週間余におよぶ戦闘の末、日本軍は浦添の前田高地に撤退しました。
嘉数高地は、沖縄戦における最激戦地の一つでした。日米両軍の戦死者に加え、多くの地域住民も戦闘に巻き込まれ犠牲になりました。
沖縄戦没者のうち京都出身者の方のために造られました。
使われている材料は京都市左京区の鞍馬で算出した「鞍馬石」が使用されています。
昭和20年春沖縄島の戦いに際して、京都府下出身の将兵2530有余の人びとが遠く郷土に想いをはせ、ひたすら祖国の興隆を念じつつ、ついに砲煙弾雨の中に倒れた。また多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶へない。とくにこの高台附近は主戦場の一部としてその戦闘は最も激烈をきわめた。
碑文より引用
星霜19年を経て今この悲しみの地にそれらの人びとの御冥福を祈るため、京都府市民によって「京都の塔」が建立されるにいたった。再び戦争の悲しみが繰りかえされることのないよう、また併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と有好の絆がますますかためられるようこの塔に切なる願いをよせるものである。
昭和39年4月29日
嘉数集落の戦没者の為、嘉数住民により建立されました。
「島根の塔」は糸満市米須に存在しています。
沖縄戦に参加した島根県出身の方の中でも、嘉数の地で亡くなった兵にむけて建てられたものかと思います。
朝鮮半島出身の韓民族の軍夫らを祭った慰霊碑です。