飛行第四戦隊門柱
今回は福岡県朝倉郡筑前町に残る「飛行第四連隊の門柱」だべ
住宅街の中に残っています!!
現在の福岡県朝倉郡筑前町には、日本陸軍の飛行場である「太刀洗飛行場」がありました。
外地への中継地点として計画された飛行場で、1916年に計画され1919年に完成しました。
太刀洗飛行場は、所沢(埼玉県)・各務ヶ原(岐阜県)・八日市(滋賀県)に続く4ヵ所目の陸軍飛行場でした。
42万5000坪の土地に、長さ500m×幅200mの滑走路が2本作られて太刀洗飛行場となります。
この場所が選ばれた理由として
1.海岸線から40㎞以上離れているので艦砲射撃の影響を受けない
2.高い山が無く、平野部である
3.風向きが安定しており、気候も飛行に適している
4.用地取得が容易である
その後、様々な施設が次々と建設されていくと土地面積は115万2000坪に膨れ上がり、東洋一とも称されるほどの航空基地となりました。
陸軍の飛行場ですが、日本航空輸送株式会社という郵便や貨物輸送の民間企業の支所が置かれると、東京~大阪~太刀洗便や太刀洗~蔚山~京城~平壌~大連便が航空輸送を開始しました。
1929年には日本初の旅客輸送が開始されます。
しかしながら、現代のような大型航空機とは程遠い乗員2名・旅客6名の旅客機によるスタートでした。
太刀洗飛行場で開隊された部隊に「飛行第四戦隊」があります。
中国大陸での作戦に参加後、熊本・台湾・山口へ移駐後、九州北部地域を中心に防空任務に従事していました。
この部隊の特徴として夜間迎撃に特化した部隊だったことで、夜間の出撃は危険も多く高い技術が必要でした。
二式複座戦闘機「屠龍」を使用して、米国の大型爆撃機「B-29」を迎撃していました。
飛行第四連隊(飛行学校)正門
案内看板より引用
大正8年(1919年)当初は太刀洗飛行場にて開隊した「飛行第四連隊」の正門として長く使用されました。飛行第四連隊が中国大陸や南方へ出撃する時は全てこの門をくぐり、また帰還しました。しかし、連隊が先の大戦を控え、熊本県菊池へ移動した後の昭和15年(1940年)秋からその跡に開校した太刀洗陸軍飛行学校・本校の正門として使われました。もともとは原地蔵公民館北側の交差点に設置されていたものです。
門柱の高さは2mくらいで、一部に損傷が見られます。
門柱の隣には、飛行連隊庁舎にあった時計台を改修した慰霊碑もあります。