山雨之塔
今回は沖縄県糸満市宇江城に建つ「山雨の塔」だべ
戦中は第24師団が使用していました!!
沖縄県糸満市宇江城に「山雨の塔」という慰霊塔が建立されています。
この慰霊塔が建立する場所には地下水の湧く洞窟「クラガー」が隣接しています。
戦前は周辺住民が水汲みに使用していましたが、沖縄戦の時には第24師団が陣地としてクラガーを使用しました。
所在地:糸満市宇江城
「県営 平和祈念公園」より引用
建立年月日:昭和37年10月
合祀者数:500柱
管理団体:(一財)沖縄県遺族連合会
雨宮巽中将率いる第24師団は昭和19年8月、満州北部から沖縄本島へ転進。翌年4月1日上陸した米軍と3カ月近く戦闘を繰り広げたが、6月24日ごろ歩兵第22連隊と歩兵第89連隊の旗を焼き、6月30日にこの地の地下壕で師団長はじめ幕僚、兵士が自決した。戦後、生存者の手で「雨宮中将戦没の跡」という木柱が建てられた。昭和37年10月、沖縄県遺族連合会が沖縄協会の委託を受け現在の塔に改修した。
「日本軍最後の抵抗拠点の一つとなった自然壕」
宇江城集落の西側、モクマオウの木立の中に慰霊碑「山雨の塔」が立つ。その下に自然洞穴のクラガーの出入り口がある。壕の出入り口付近から水が湧き出している。もともと住民が水汲み場として利用していたこの壕を、第24師団が陣地として利用。首里陥落後は第24師団司令部が移動してきており、宇江城一帯は日本軍最後の抵抗拠点の一つとなる。1945年6月28日、壕入り口を米軍が爆破。30日、師団長の雨宮中将がこの壕で自決。軍旗の奉焼も行われた。
https://www.city.itoman.lg.jp/kankou-naviより引用
第24師団は、沖縄近海を守備していた第32軍を構成していた部隊の一つです。
第32軍の前は第5軍に所属し、治安維持師団として中国大陸で活動していました。
比較的新設の師団で、沖縄戦時の師団長は3代目の「雨宮巽陸軍中将」でした。
第32軍の所属となり、1944年に第24師団は沖縄本島へやってきました。
当初は本島中部にて陣地構築や沖縄中飛行場の建設に従事しました。
その後、1944年12月に部隊の配置転換のために担当地域が本島南部になります。
地上戦が開始されると最初は第62師団が戦闘を行っていましたが、持ち応えられず南部で待機していた第24師団の部隊も前線に配置されることになります。
1945年5月末、第32軍司令部が首里から摩文仁に移されると、第24師団司令部もクラガーへ移動してきます。
クラガーは米軍に見つかってからは、入口を爆破されたり、爆弾を投げ込まれるなどの馬乗り攻撃を受けました。
その後、1945年6月下旬に壕内にて司令部将兵と雨宮司令官は自決したとされます。