
弾痕の残る塀
今回は沖縄県宜野湾市嘉数に残る「弾痕の残る壁」だべ


嘉数は沖縄戦でも有数の激戦地ですね!
1945年4月1日、沖縄本島中部から米軍が上陸して沖縄本島での地上戦が始まりました。
沖縄本島を守備する第32軍は、兵力不足から本島南部地域に部隊を集中配備しました。
宜野湾市嘉数地域は上陸地点から首里にあった第32軍司令部までの通過点にあり、上陸した米軍と日本軍が激しい戦いを繰り広げた場所として知られます。
嘉数高地として日本軍が陣地構築した場所は、現在では嘉数高台公園として整備されています。

嘉数高台公園には、「弾痕の残る壁」が残されています。
これは嘉数集落内の屋敷跡から移設された塀で、側面には戦闘でついた弾痕が残っています。

弾痕の塀
戦前の嘉数は、家屋敷や道路が碁盤状に整備され、田畑に囲まれたのどかな集落でしたが、日本軍が駐屯し陣地構築を始めると、軍靴の音が響くようになりました。米軍上陸後の嘉数は、日米両軍の主力が激しい攻防戦を繰り広げた場所となり、住民はもとより、住みなれた家屋敷なども大きな被害を受けました。
戦場となった嘉数では、日米両軍の銃弾・砲弾が雨あられのごとく降り注ぎました。
この弾痕の塀は、それを物語るものです。
宜野湾市
The well of bullet holes
During pre-war Kakazu,mane houses and the roads were in a grid system.this was a quiet village,surrounded by fields,but the sounds of the japanese force’s boots,who were stationed nearby were now echoing in the village.An intense battle unfolded in Kakazu where the U.S.forces had landed.the inhabitants and many houses that had survived for so long,sustained great damage from the battles.
Kakazu became a battlefield,the bullets and the bombs poured like showers from the japanese and U.S.Force.the wall of bullet holes tells us how fierce the battle was.
Ginowan city


この地で戦ったのは藤岡武雄中将が率いた第62師団隷下の歩兵第63旅団らでした。
高地上での白兵戦、爆雷を担いだ特攻兵や速射砲による戦車破壊によって、兵力差がありましたが4月6日頃から2週間持ちこたえました。


