黒しばわんこの戦跡ガイド

『ひめゆり学徒隊』の概要と関連史跡

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学校所在地 那覇市安里字大道付近
動員数 生徒222人(師範学校女子部:157名、県立第一高等女学校:65名)
配属部隊 沖縄陸軍病院(球18803部隊)
配属地 沖縄陸軍病院(南風原町)
一日橋分院(南風原町)
糸数分院(南城市)
識名分院(那覇市)
撤退後の状況 現:糸満市の字米須や字伊原付近のガマ(山城本部壕・波平第一外科壕・大田壕・伊原第一外科壕・糸洲第二外科壕・伊原第三外科壕)に撤退する。
艦砲射撃の弾の破片の直撃により学徒からも死者が出る。
1945年6月18日に解散命令が出されてからは、移動時の艦砲弾の破片直撃やガマへの馬乗り攻撃(ガマに手榴弾等を投げ込む・内部に火炎放射器を噴射する・ガマにガソリンを流し込んで火をつける)により死者が激増した。



このページでは「ひめゆり学徒隊」についてをまとめているんだべ
ポチ太郎
ポチ太郎

ハチ公
ハチ公
史跡に設置された説明文や図書館で閲覧した資料を参考にしています!

✅沖縄にあった中等学校

戦争期、沖縄県には21の中等学校があり、沖縄戦では全ての学校が動員されました。
沖縄を守っていたのが「第10方面軍 第32軍」です。
この第32軍の主な構成は、沖縄本島の第32軍司令部直轄部隊・第62師団・第24師団・独立混成第44旅団、宮古・大東島の第28師団、石垣島の独立混成第45旅団と他いくつかの部隊で構成されていました。

動員された学徒は各部隊に配属されました。
基本的に沖縄本島の学徒隊は本島の部隊、石垣島や宮古島の学徒隊も石垣や宮古島のそれぞれの部隊に配属されたようです。

年齢では、男子学徒は14歳から19歳、上級生は「鉄血勤皇隊」、下級生は「通信隊」に配属されます。
女子学徒は15歳から19歳、主にガマや病院壕で看護活動を行いました。

  学校名 部隊名 配属先
1 沖縄師範学校男子部 師範鉄血勤皇隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
2 沖縄県立第一中学校 一中鉄血勤皇隊・一中通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
3 沖縄県立第二中学校 二中鉄血勤皇隊・二中通信隊 独立混成第44旅団(球部隊)・第62師団(石部隊)
4 沖縄県立第三中学校 三中鉄血勤皇隊・三中通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)・独立混成第44旅団(球部隊)
5 沖縄県立農林学校 農林鉄血勤皇隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)・独立混成第44旅団(球部隊)
6 沖縄県立水産学校 水産鉄血勤皇隊・水産通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
7 沖縄県立工業学校 工業鉄血勤皇隊・工業通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)・第24師団(山部隊)
8 那覇市立商工学校 商工鉄血勤皇隊・商工通信隊 第62師団(石部隊)・独立混成第44旅団(球部隊)
9 開南中学校 開南鉄血勤皇隊・開南通信隊 第62師団(石部隊)・第24師団(山部隊)
10 沖縄県立宮古中学校 宮古中鉄血勤皇隊 第28師団(豊部隊)
11 沖縄県立八重山中学校 八重山中鉄血勤皇隊 独立混成第45旅団(球部隊)
12 沖縄県立八重山農学校 八重農鉄血勤皇隊・八重農女子学徒隊 独立混成第45旅団(球部隊)・第28師団(豊部隊)
13 沖縄師範学校女子部 ひめゆり学徒隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
14 沖縄県立第一高等女学校 ひめゆり学徒隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
15 沖縄県立第二高等女学校 白梅学徒隊 第24師団(山部隊)
16 沖縄県立第三高等女学校 なごらん学徒隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
17 沖縄県立首里高等女学校 瑞泉学徒隊 第62師団(石部隊)
18 沖縄積徳高等女学校 積徳学徒隊 第24師団(山部隊)
19 昭和高等女学校 梯梧学徒隊 第62師団(石部隊)
20 沖縄県立宮古高等女学校 宮古高女学徒隊 第28師団(豊部隊)
21 沖縄県立八重山高等女学校 八重山高女学徒隊 独立混成第45旅団(球部隊)・第28師団(豊部隊)

✅ひめゆり学徒隊について

ひめゆり学徒隊は「沖縄県立第一高等女学校」と「沖縄師範学校女子部」の2校の生徒から構成されていました。
両校の所在地は、沖縄都市モノレールの安里駅近くにある「大道小学校」付近で、校庭の隅にひめゆりの銅像があります。
別の学校でありながらも、この場所に併設していました。

部隊名になっている「ひめゆり」というのは、両学校の学校誌「乙姫」と「白百合」から取った造語で、当初は「姫百合」と記載されていましたが、時が経つと「ひめゆり」と記載されるようになりました。

 

✅沖縄師範学校女子部の概要

前身は1886年に沖縄師範学校内に設置された「女子講習科」です。
「師範学校」は教員を養成するための学校で、「女子講習科」の修学年数は2年でした。

ハチ公
ハチ公
東京都にある「お茶の水女子大学」の前身は名門の「女子師範学校」です!

✅沖縄県立第一高等女学校の概要

前身は1900年に設置された「私立高等女学校」です。
当初は3年の修学年数が「沖縄県立高等女学校」と改称された際に4年に変更されます。

ハチ公
ハチ公
高等女学校は’’良妻賢母’’を養成するという特色が強いので、科目も普通科目に加えて料理や縫製などの家政科がありました!

✅近づいてくる沖縄戦

沖縄での地上戦が現実味をおびてくると、授業に代わって陣地構築や食糧増産のために近隣の畑にお手伝いに行くことが増えてきます。
貴重な男手が招集や学徒動員により減少してしまっているので、12~19歳の男女でも貴重な労働力だったのです。

軍と学校当局による「学徒の戦地動員」の打ち合わせは1944年半ば頃から行われ、同年11月頃からは学校内で軍医や衛生兵による看護教育、終戦年の1945年初頭には陸軍病院内で実地訓練が行われました。

✅ひめゆり学徒隊の動き

年月日 出来事 関連記事
1945.3.23 生徒222人・引率の教師18人が現:南風原町にあった「沖縄陸軍病院」に配属される。 陸軍病院 飯あげの道
1945.3.26 米軍、慶良間諸島に上陸
1945.4.1 米軍、読谷村付近より沖縄本島に上陸
以降、運び込まれる患者が急増する
急増患者に対応するため、識名分院・一日橋分院・糸数分院を増設
上陸の地碑
1945.4.8 嘉数の戦い 嘉数陣地壕 ハクソーリッジ
1945.4.16 米軍、伊江島に上陸 アハシャガマ ニャティヤ洞
1945.5.12 シュガーローフの戦い シュガーローフ ハーフムーンヒル
1945.5.25 陸軍病院に南部撤退命令が出される
1945.5.29 米軍が司令部のあった首里を制圧
沖縄守備軍が南部後退し始める
第32軍司令部壕 津嘉山司令部壕
1945.6.17 伊原第一外科壕が至近弾を受ける 伊原第一外科壕
1945.6.18 陸軍病院で学徒に対して「解散命令」が出される
糸洲第二外科壕が馬乗り攻撃を受ける
糸洲第二外科壕
1945.6.19 伊原第三外科壕に黄燐手榴弾が投げ込まれる 伊原第三外科壕
1945.6.21 荒崎海岸において引率の教員と生徒計10名が手榴弾にて自決 ひめゆり学徒隊散華之碑

 

✅ひめゆり学徒隊がいた場所

①沖縄陸軍病院

沖縄陸軍病院の変遷として、最初は那覇市の開南中学校と済生会病院に開設されました。
しかし、10.10空襲(那覇近郊を襲った複数回の激しい空襲)によって病棟が焼失。
病棟を南風原国民学校に移転し、再度の空襲のために複数の防空壕も同時に造っておきました。
空襲が激しくなってきたため、病院機能を防空壕へ移して「沖縄陸軍病院壕」となりました。

ひめゆり学徒隊は1945年3月23日の動員命令の後、夜の道を南風原まで急ぎました。
到着後は三角兵舎という小屋にて待機しますが、陸軍病院が壕内に移転されると同時に病院壕22号・23号・24号に入りました。

戦争が本格化していない時、学徒らは本部指揮班・炊事班・看護班・作業班のグループに分けられ、壕を掘る・ご飯を作る・物を運ぶなどの作業を行っていました。
現在では病院壕第20号が現存しており、中の見学が可能になっています。



④糸数分院(アブチラガマ)

米軍が沖縄に上陸し地上戦が始まると、病院壕に運び込まれる負傷兵も激増していきました。
大量の負傷兵に対応するため、識名分院・一日橋分院・糸数分院が造られます。

学徒隊の壕での作業内容は、包帯交換・食事の補助・汚物の処理・飯上げ(食缶を運んでくるという軍隊用語)・食料調達・水汲み・死体埋葬・伝令がありました。
ただし、この作業を艦砲弾が飛び交っている中で行うということを忘れてはなりません。

手術室に配属される学徒もおり、道具の準備、明かりのロウソクを持っていたり、手足を切断する際に暴れる患者を押さえるのも学徒が行いました。
薬品も不足していたので、手術は麻酔無しで行われています。

3つの分院の内、糸数分院は現存しており、中高生の平和学習でも頻繁に使われているようです。
糸数分院は「アブチラガマ」とも呼ばれます。
270m程の大きさのガマに600人前後の患者がいました。
内部は手術室や軍務室、兵器庫、破傷風患者の隔離スペースなど各場所にスペースが設けてありました。
ガマ内部の壁を見てみると、火炎で焼け焦げた跡や爆破の衝撃で天井にめり込んだ一斗缶を確認できます。
現在は物音ひとつしない洞窟ですが、戦時中は艦砲弾の炸裂音や水や食料を求める患者の声・手術室からの悲鳴・破傷風患者の叫びに満たされていました。
予約をした上でガイドさんが同行しないと内部に入ることはできないようです。


⑤山城本部壕(サキアブ)

米軍の侵攻、陥落する首里城
逃げ場のない沖縄守備隊は沖縄本島南部(現:糸満市・八重瀬町)に後退していきます。
陸軍病院にも南部にある防空壕に移動する様に命令が出されます

まず、陸軍病院の本部は現:糸満市字米須の山城本部(ヤマグスクホンブ)壕、別名:サキアブに移されました。
ひめゆりの塔がある伊原第三外科壕のやや南にある山城本部壕では、艦砲弾が直撃し病院長他数人の死傷者が出ます。
死者の中にはひめゆり学徒もおりました。
本部機能が壊滅したため、付近にある伊原第一外科壕や伊原第三外科壕に本部機能を分配しますが、南部撤退以前より薬品などの不足から病院壕には病院としての機能は既に無くなっていたのです。

現在の山城本部壕(サキアブ)は畑の中に静かに残っています。
付近には平和創造の森公園、戦後に真和志村民が遺骨を集めたことから出来た「魂魄の塔」や、有川中将以下将兵自決の壕(シーガーアブ)があります。


⑥糸洲第二外科壕

「ひめゆりの塔」から国道331号線を西へ車で5分程走り、横道に入ると「糸洲第二外科壕」があります。
現在では壕口を入ってすぐにコンクリートの塊がある為、奥まで見ることはできなくなっています。
この壕でも米軍による馬乗り攻撃されています。

 

ひめゆり学徒隊には関連しませんが、糸洲近辺にはガマがいくつかあります。
「糸洲の壕(ウッカーガマ)」、「ウンジャーガマ」、「一本松の壕(トーンガマ)」です。

「糸洲第二外科壕」とは国道331を挟んで反対側に「糸洲の壕」別名:ウッカーガマがあります。
糸洲の壕には、長野県出身の軍医「小池勇助」隊長が率いる山3487部隊と動員されていた「積徳学徒隊」がいました。
こちらの壕でも周囲が戦闘中、すぐに学徒隊の解散をするように命令がありました。
しかし小池隊長は「女学生は親御さんからお預かりしている」という考えだったので、解散命令を出して戦場に放りだすことはしませんでした。
周囲の戦闘が終了するまで待ってから解散命令を出し、女学生達に「捕虜になって何とか生き残るように」と伝えて壕から送り出しています。
積徳学徒隊は25人の内、22名が生還しています。



 

⑦伊原第一外科壕

近くにある「ひめゆりの塔」のある「伊原第三外科壕」が観光地化で整備されていることから目を向けられることが少ないのが「伊原第一外科壕」です。
幹線道路から1~2分歩いた場所にある「伊原第一外科壕」には、糸数分室(アブチラガマ)から南部へやってきた軍医や患者が入りました。
崩壊した山城本部壕から移動してきたひめゆり学徒もおりましたが、こちらの壕も攻撃を受けてしまいます。

 

⑧伊原第三外科壕

沖縄県の慰霊塔で最も知られているのが「ひめゆりの塔」だと思いますが、ひめゆりの塔の前に開いているガマが「伊原第三外科壕」です。
南風原の陸軍病院・識名分院・一日橋分院からこの壕へ移ってきました。
この壕では黄燐手榴弾が壕内に投げ込まれ、壕内にいた96人中87人が死亡しました。
隣接する資料館で壕の内部が再現されています。
また、現在の綺麗になっている慰霊碑の横にかつての慰霊碑「ひめゆりの塔」がちゃんと残されているので、そちらにも目を向けてみてください。

 

この「黄燐手榴弾」やその他爆薬を使用した兵器は現在でも発見されます。
最近でも、那覇空港にて不発弾処理がされましたし、2008年1月には那覇市牧志という国際通りからほど近い場所でも黄燐手榴弾の不発弾が発火し、自衛隊により処理・回収されています。
回収された手榴弾は直径7センチ、長さ14センチ程の大きさでした。
このような不発弾処理、現在でも頻繁に行われています。

そして黄燐弾というのはどういった物かというと、「白燐弾」とも呼ばれます。
科学の授業に出てくる元素「リン(元素記号:P)」の同素体である「白リン(White Phosphorus)」が詰められています。
信管を作動させて爆破させると白リンが飛び散り、化学反応によって白煙と有毒ガスを出します。
また、飛び散る白リンが人体に触れると重度の火傷が生じます。

 

⑨荒崎海岸(ひめゆり学徒散華之碑)

学徒の解散命令が出され、戦場を彷徨う学徒隊が行き着いたのが「荒崎海岸」でした。
そこで見たものは海を埋めるほどに漂う米軍の艦船、地上には埋め尽くすほどの人々の亡骸でした。
絶望の光景を前に、更に銃弾や砲弾が襲います。
生徒と教員10名は岩陰に隠れながらも手榴弾のピンを抜きました。
現在、荒崎海岸には「ひめゆり学徒散華の碑」が残されています。

✅消失した壕

南風原町の陸軍病院跡には現在は20号壕しか残っておらず、かつて30程あった壕はほぼ全て埋没してしまっています。

糸満市の伊原第一外科壕の近くに「大田壕」という壕があったそうですが、現在は埋められて畑になっています。
また、現在の琉球ガラス村の近くには「波平第一外科壕」がありましたが、現在は埋没しています。
この壕も南部撤退の際には撤退先に使われていました。

✅犠牲者

最初に動員されたのは生徒222人・教員18名計240人でした。
その後3か月で136名が犠牲になりました。
特に学徒解散してから犠牲者が大きく増加したようです。

しかし、ひめゆり資料館や各慰霊碑の説明文によっては死者数等に違いがあるそうです。
それは従軍せずに戦争で亡くなった同校の学生を人数に含めたり、後の調査によって死亡原因が戦争由来でない場合など様々な要因によってバラつきが出てくるようです。
「’’従軍したかどうか’’で大切な学友が同じ慰霊碑に祀られるかどうか」を決められるのは元学徒隊員は望んでいないのです。

✅証言

脳症患者と破傷風患者

その死体片づけが大変でした。
死んで何日も放置された死体は膨れ上って大きいのです。
それを担架に乗せ、艦砲の合間を縫って、艦砲穴に一 二 三の掛け声で投げ込み、全身が隠れる位まで土をかけて埋めていました。
私達は栄養不良で痩せ細っていますし、二人でフラフラ落っことしそうになりながら足を踏ん張り作業を続けました。
雨は降るし 艦砲は来るし 生きた心地もしません。
翌日また埋葬に行ってみますと埋めた死者の足が飛び出している始末です。
連日の雨で土の沈澱が激しく、またそこに砲弾も落ちるからです。

「便器を下さい 尿器下さい」
「水をくれ」

とあっちからもこっちからも呼ぶんですよ。
患者も手当や尿便の処理だけでも人手不足なのに、看護が行き届かないと怒鳴りつける人もいるありさまで
「包帯を代えてくれ、治療してくれ」と言われても、衛生材料は全く足りないのです。
手の施しようもありません。
非常に困りました。

壕は二段式寝台になっていましたが「上の奴が尿を漏らした」と終始大声で怒鳴るし、死者の埋葬は毎日ですし、キリキリ舞いの忙しさで大変な勤務だったんですよ。

艦砲の落ちた穴には池のように水が溜まります。
それを飲み水に使うのですが、そこで洗濯もするし、虱(シラミ)の湧いた髪も洗います。
壕内の糞尿処理は悪い上、キビ殻の甘酸っぱい匂いに蝿が群がり、甚だしく不衛生で傷口は必ず蛆(ウジ)が発生しました。
生きた人間に蛆が湧くんです。
膿(ウミ)でジタジタになった包帯の中でムクムク動いて、ギシギシと肉を食べる音まで聞こえるのです。
ピンセットでつまみ出しても包帯の中に引っ込んでしまったりです。
薬も包帯もないので治療も出来ず、蛆とりだけが私達の仕事でした。
蛆が膿を吸い尽くすから、却って治りがいいと言っていました。

破傷風患者は口を開きませんから「水をくれ、水をくれ」と苦しまぎれに手真似で祈る恰好で訴えるんです。
かわいそうでしたが、固く閉ざした歯の隙間からガーゼの水で潤してあげるだけしか出来ません。

毒が脳に回った脳障患者は、絶えず訳の分からないことをしゃべり続けていました。
時々、私達の脚を掴えたりしますので転びそうになったりします。
それにうっかり尿でも傍らに置いておこうものならそれも飲んでしまう有様です。

元気な患者は夜、勝手に外に出て行って飼い主のいなくなった馬や山羊を捕まえてきて解体し食べていましたよ。

 

渡久山(旧姓:古堅)ハル
第一外科勤務

重傷者でひしめく糸数分室

手術の時の 兵士達の断末魔の叫び声は今でも耳にこびりついているんですよ。
地獄そのものでしたよ。
麻酔薬も充分にありませんから、本当に気休め程度しかうってくれないんです。
患者は「もういい、殺してくれ。軍医殿、殺してくれ」と叫ぶんです。
軍医は「貴様、日本軍人だろう。これぐらいのことが我慢出来なくてどうするんだ」といって叱るんです。

五月中旬になると、患者達の傷の悪化は非常に目立ってきました。
すべての患者達は身体中が膿と蛆だらけになっていましたね。

脳症患者も破傷風患者も次第に増えていきました。
脳症患者は頭がいかれていますから大変なんですよ。
重傷で寝ている人の上を平気で歩き回って暴れるのです。
「こいつを 何処かへ連れて行って」と騒ぐんです。
看護兵が来て壕の奥へ奥へと連れて行くんです。
「何処へ連れて行くんですか。」ときいても返事はしないんですよ。

破傷風患者は手足が痙攣し、終いには口が開かなくなるんです。
そうなるとおも湯も喉に通らないんです。
そんな患者は隔離室に移されるわけです。
戸板で囲われた狭い所に入れられて、助けてくれと訴えるように目だけをキョロキョロ させていましたよ。

島袋(旧姓:屋比久)淑子
糸数分室勤務

患者にかまうな、出ろ

伊原壕に着いてみたらいきなり「解散命令だ」と言う話ですよ。
仲宗根先生が皆を集めて伝えていたんです。
皆最初はどういう意味なのか状況が理解できずただぼんやりしてましたよ。
軍医達は「早く脱出せよ」とせきたてています。

もうどうしてもここからすぐに脱出しなければならない。
私はすぐ側にある玄米の俵から米を鷲掴みにして皆に配り粉味噌も配りました。
出ようとしたころにはもう夜も明け。
偵察機が何機も飛んでいます。
躊躇している所に第二外科の与那覇松助先生と内田先生が駆けこんできたのです。
先生方は「糸洲第二外科壕は馬乗り攻撃にあった。犠牲者も出た。それでここに合流することになった。」と言っていました。
「先生。ここも解散命令で 先生も生徒も 皆出て行ったんですよ。負傷した寝たっきりの生徒が残っているだけですよ」と言いますと、先生方は
「そうか」
とがっくりしていましたがすぐに負傷して残されている生徒達を見舞っていました。

横たわっていた同級生の知念芳さんは私のモンペを引っ張って私に言うのです。
「逃げないでくれ。私達を捨てて逃げないでくれ」
私がお椀に水を溜めて飲ませたりして迷っていますと、軍医達は
「患者は自分達が看る。構わずに早く出ろ。ここにいたら全滅だ。出なければ 叩っ切るぞ!」
と殺気立っているんです。

石川清子さん 神田幸さん 上江洲浩子さんは動くこともできず寝ていたんです。
でも皆、意識ははっきりしていましたよ。
入口を出たり引っ込んだりしていたら先に壕を出ていった照屋教頭が出てから迫撃砲にやられて手も顔も血まみれになって戻って来たのです。
私が先生に声をかけようとしたら先の軍医がまた
「構うな。出ろ」
と追い返しました。
与那嶺先生や内田先生と一緒に勇気を出して壕を後にしました。
方角も全くわからず、ただ人がいく方向についていくだけでした。

仲本(旧姓:島袋)トミ
第一外科勤務

 

沖縄戦の全学徒隊(ひめゆり平和祈念資料館 資料集4) P140~143より引用

✅参考資料

各所案内看板(サキアブ・ひめゆりの塔・沖縄陸軍病院壕)
沖縄戦の全学徒隊(ひめゆり平和祈念資料館 資料集4) 2008年6月23日発行 ひめゆり平和祈念資料館 編集・発行

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ポチ太郎

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