黒しばわんこの戦跡ガイド

『白梅学徒隊』の概要と関連史跡

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学校所在地 那覇市松山(現:松山公園付近)
動員数 生徒46人
配属部隊 第二十四師団第一野戦病院
配属地 第二十四師団第一野戦病院(八重瀬町)
東風平分院(八重瀬町)
新城分院(八重瀬町)
撤退後の状況 6月4日に第二十四師団第一野戦病院の解散命令が出され、45名が現:八重瀬岳の壕を出て南部を目指す。16名が現:糸満市眞栄里の「白梅之塔 下の壕・上の壕」まで辿り着き、同部隊の残存者と共に看護活動を再開する。しかし、壕が米軍の馬乗り攻撃を受けて生存者は3名のみであった。



ポチ太郎
このページでは「白梅学徒隊」についてをまとめているんだべ

ハチ公
史跡に設置された説明文や図書館で閲覧した資料を参考にしています!

✅沖縄にあった中等学校

戦争期、沖縄県には21の中等学校があり、沖縄戦では全ての学校が動員されました。
沖縄を守っていたのが「第10方面軍 第32軍」です。
この第32軍の主な構成は、沖縄本島の第32軍司令部直轄部隊・第62師団・第24師団・独立混成第44旅団、宮古・大東島の第28師団、石垣島の独立混成第45旅団と他いくつかの部隊で構成されていました。

動員された学徒は各部隊に配属されました。
基本的に沖縄本島の学徒隊は本島の部隊、石垣島や宮古島の学徒隊も石垣や宮古島のそれぞれの部隊に配属されたようです。

年齢では、男子学徒は14歳から19歳、上級生は「鉄血勤皇隊」、下級生は「通信隊」に配属されます。
女子学徒は15歳から19歳、主にガマや病院壕で看護活動を行いました。

  学校名 部隊名 配属先
1 沖縄師範学校男子部 師範鉄血勤皇隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
2 沖縄県立第一中学校 一中鉄血勤皇隊・一中通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
3 沖縄県立第二中学校 二中鉄血勤皇隊・二中通信隊 独立混成第44旅団(球部隊)・第62師団(石部隊)
4 沖縄県立第三中学校 三中鉄血勤皇隊・三中通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)・独立混成第44旅団(球部隊)
5 沖縄県立農林学校 農林鉄血勤皇隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)・独立混成第44旅団(球部隊)
6 沖縄県立水産学校 水産鉄血勤皇隊・水産通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
7 沖縄県立工業学校 工業鉄血勤皇隊・工業通信隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)・第24師団(山部隊)
8 那覇市立商工学校 商工鉄血勤皇隊・商工通信隊 第62師団(石部隊)・独立混成第44旅団(球部隊)
9 開南中学校 開南鉄血勤皇隊・開南通信隊 第62師団(石部隊)・第24師団(山部隊)
10 沖縄県立宮古中学校 宮古中鉄血勤皇隊 第28師団(豊部隊)
11 沖縄県立八重山中学校 八重山中鉄血勤皇隊 独立混成第45旅団(球部隊)
12 沖縄県立八重山農学校 八重農鉄血勤皇隊・八重農女子学徒隊 独立混成第45旅団(球部隊)・第28師団(豊部隊)
13 沖縄師範学校女子部 ひめゆり学徒隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
14 沖縄県立第一高等女学校 ひめゆり学徒隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
15 沖縄県立第二高等女学校 白梅学徒隊 第24師団(山部隊)
16 沖縄県立第三高等女学校 なごらん学徒隊 第32軍司令部直轄部隊(球部隊)
17 沖縄県立首里高等女学校 瑞泉学徒隊 第62師団(石部隊)
18 沖縄積徳高等女学校 積徳学徒隊 第24師団(山部隊)
19 昭和高等女学校 梯梧学徒隊 第62師団(石部隊)
20 沖縄県立宮古高等女学校 宮古高女学徒隊 第28師団(豊部隊)
21 沖縄県立八重山高等女学校 八重山高女学徒隊 独立混成第45旅団(球部隊)・第28師団(豊部隊)

✅白梅学徒隊について

白梅学徒隊は「沖縄県立第二高等女学校」の生徒から構成されていました。
学校の所在地は那覇市の「松尾山高台」、沖縄都市モノレールの県庁前駅から徒歩15分程にある「松山公園」から那覇商業高校付近で、松尾公園内に「白梅の乙女たち」の銅像があります。

✅沖縄県立第二高等女学校の概要

1905年 女子講習会(同年、私立那覇女子技芸学校に改称)
1921年 那覇市立実科高等女学校に改称
1924年 那覇市立高等女学校
1928年 沖縄県立第二高等女学校

高等女学校の修学年数は事情がない限り4年です。
1944年での生徒数は634人、一学年は約150人の’’松・竹・梅’’の3クラス制でした。

ハチ公
創立時は那覇市の女子たちに和洋裁や家事などの技芸を教える学校でした!

 

 

✅松山公園内にある「白梅の乙女たち」像

✅近づいてくる沖縄戦

沖縄での地上戦が現実味をおびてくると、学校生活にも変化が出てきます。
まず学校内での変化には、敵国語である「英語科」の廃止、薙刀(ナギナタ)・木刀・竹槍の訓練が開始されました。
また、学年やクラスを表す際に’’中隊・小隊・分隊’’と呼称する、作業などにおいても決められた隊での「隊別行動」をとるようになります。
休みには学校の正門前の歩哨を分隊毎に交代で行うこともありました。

学校外では徴兵により男手の無い農家へ農作業や保育の手伝いを行ったり、県庁に勤労奉仕がありました。
それだけでなく、1943年頃は小禄飛行場(現:那覇空港)付近の陣地壕、1944年頃は現:奥武山公園近くの「がじゃんびら」や「垣花」、現:おもろまちメディカルセンターのある「上之屋」の高射砲陣地構築、1945年初頭には首里の弁が岳の陣地構築などの肉体労働にも従事します。

生徒たちが勤労に励んでいた1945年2月初め、沖縄県立第二高等女学校校長である稲福全栄氏が第32軍司令部から「生徒に看護教育を行う」ように要請されました。
要請後、最上級生の70名に看護教育がスタートし、半月もたたずに第24師団第1野戦病院(山3486聯隊)の看護教育隊に入隊するように司令部から再要請されます。
家庭や身体的事情のない56名が看護教育隊への入隊が決定しました。

3月6日には部隊のあった東風平国民学校(現:東風平中学校)に集まり、積徳高等女学校の生徒と共に看護教育が開始されます。
内容は衛生看護学で、午前中に習ったことを午後にテストするなど急ピッチで授業がされました。
私生活では軍隊での規律が求められ、何か不徳な行動があれば怒鳴られるのはもちろん、ビンタも日常であり、軍隊の中では「10代の女の子」であることは全く関係ありませんでした。
この教育は3月23日まで続きました。

✅白梅学徒隊の動き

年月日 出来事 関連記事
1944.10.10 10.10空襲により校舎が全焼する
1945.3.6 4年生56人が看護補助要員として第二十四師団衛生看護教育隊に入隊する
1945.3.24 米軍の攻撃激化の為、教育を中断。第二十四師団第一野戦病院壕(現:八重瀬公園)に配属される 第24師団第一野戦病院
1945.3.25 引率の教員、病弱だった2名、家庭・健康上の事情による7名が除隊する
1945.3.26
米軍、慶良間諸島に上陸
1945.3.28 現:八重瀬町港川方面より初めて負傷兵が運ばれてくる
以降、負傷兵が次々と運ばれてくる
1945.4.1 米軍、読谷村付近より沖縄本島に上陸 上陸の地碑
1945.4.8 嘉数の戦い 嘉数陣地壕 ハクソーリッジ
1945.4.16 米軍、伊江島に上陸 アハシャガマ ニャティヤ洞
1945.4月下旬 本部壕に収容しきれない為、新城分院(ヌヌマチガマ)を開設
5名の学徒が配属される
 新城分院 ガラビ壕
1945.5月上旬 本部壕に収容しきれない為、東風平分院を開設する
5名の学徒が配属される
 
1945.5.12 シュガーローフの戦い シュガーローフ ハーフムーンヒル
1945.5.29 米軍が司令部のあった首里を制圧
沖縄守備軍が南部後退し始める
第32軍司令部壕 津嘉山司令部壕
1945.6.3 新城分院と東風平分院を閉鎖
1945.6.4 病院長から第二十四師団第一野戦病院の「解散命令」が発表される
1945.6.9 南部撤退した学徒の内16名が高嶺村真栄里(現:糸満市真栄里)の「上の壕」「下の壕」に到着する
同部隊と共に看護活動を再開する
休憩していた学徒1名が直撃弾を受けて死亡する
上の壕 下の壕
1945.6.18 ガマの近くで米軍側司令官、サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア中将が射殺される
以降、ガマのある真栄里も米軍の猛攻撃を受ける
バックナー中将戦死之跡
1945.6.21 下の壕が馬乗り攻撃を受け、学徒6名が死亡
1945.6.22 上の壕が馬乗り攻撃を受け、学徒2名が死亡、4名が重度の火傷を負う(後に1名死亡)

 

✅白梅学徒隊がいた場所

①沖縄県立第二高等女学校

現在の那覇商業高校から松山公園付近に存在した高等女学校。
高等女学校は通常の科目に加えて、料理や縫製などの家政科目も教え「良妻賢母」の育成する特色があり、この学校も例にもれず和洋裁などの家政科目を教えていた。
1944年の10月10日の大規模空襲(10.10空襲)によって1940年に新築で完成した校舎が全焼する。

現在、松山公園内には「白梅の乙女たち」の像が建っている。

 

 

②東風平(コチンダ)国民学校

現:東風平中学校の場所にあり、第二十四師団第一野戦病院(山3486聯隊)が置かれていた。
3月6日から3月23日まで白梅学徒隊と積徳学徒隊の衛生看護学が教えられた。

 

 

③第二十四師団第一野戦病院壕

現:八重瀬公園に残っている病院壕。
東風平国民学校にて学徒隊の教育途中であったが、米軍の侵攻により前倒しで配属された場所。
約500名の患者が収容でき、軍医や看護婦、衛生兵は193人が勤務していた。

負傷者の増加から、病院壕の80m程上部に「手術場壕(通称:上の壕)」が増設され、3㎞程離れた場所にある自然壕「ヌヌマチガマ」に「新城分院」が設置される。
「上の壕」には5名の学徒が配属される。
2交代で勤務していたが、人が足りず徐々に24時間勤務になっていく。

現在は八重瀬岳の中腹に駐車場や公衆トイレも設置され、内部に崩落はあるが病院壕は現存している。

 

 

④新城分院(ヌヌマチガマ・ガラビガマ)

沖縄本島南部の地質は「琉球石灰岩」が多く含まれており、雨が浸透して地下にある「琉球石灰岩」が溶けていくことで空洞ができます。
沖縄県では、この自然に出来た空洞を「ガマ」と呼び、人間の手で掘られた穴については集落名に「壕」を付けて呼称したりします。
しかし、厳格に定義されている訳ではないので「ガラビガマ」と記載されたり「ガラビ壕」と記載されてる場合もあります。

この「ヌヌマチガマ」「ガラビガマ」は内部で繋がっている約500mの長さがあるガマです。
ほぼ自然壕ですが、一部人工的に掘られた部分もあります。
ガマの西側部分を「ヌヌマチガマ」、東側部分が「ガラビガマ」とされています。

八重瀬岳の病院本部壕に収容しきれなくなった4月下旬、このヌヌマチガマ・ガラビガマを「新城分院(アラグスク)」としました。
設置に際して、軍医や看護婦に加え、本部壕で勤務していた白梅学徒隊から5名が派遣されています。
広い壕内には手術台や病室、2段ベッドが設置されていましたが、患者の増加に対応しきれずに藁を敷いた床にも患者を寝かせ、多い時では約1000人の患者がいました。
また、薬品に関しても全く足りなかった為に治療らしい治療ができず、食事も1日2回だった握り飯も最後には1日1回でピンポン玉ぐらいの握り飯になりました。

米軍の侵攻により新城分院は1945年6月3日に閉鎖され、次の日の4日には第二十四師団第一野戦病院が解散されます。

現在でも2つのガマは残っており、特にヌヌマチガマ側は駐車場や公衆トイレも設置、八重瀬戦争遺跡公園として周辺が整備されている。
一方、ガラビガマは平和学習で使われていた時期もあったようですが、近年は整備されているヌヌマチガマで修学旅行生の平和学習が行われているようで道中の道も荒れています。

 

 

⑤上の壕・下の壕

高嶺村真栄里(現:糸満市真栄里)にあり、白梅学徒隊16名が戦地を彷徨った末にたどり着いた壕です。
第二十四師団第一野戦病院の解散後に同部隊がこの地を訪れ、その後に白梅学徒隊16名も合流しました。
しかし、その頃にはかつて一緒に働いた衛生兵の多くは他の部隊に転属したり切込攻撃を行っていた為、満足な治療はできなくなっていました。

現:白梅之塔の横にある壕が「下の壕」です。
下の壕では傷病兵の治療を行っていました。

白梅之塔から坂を少し登り、現:眞山之塔の裏手にひっそりとあるのが「上の壕」です。
こちらの壕は食糧や弾薬の倉庫兼学徒隊の休憩場所でした。

この壕の程近くで米軍側司令官のバックナー中将が射殺されたことから、米軍の士気が高揚し国吉や真栄里一帯は猛攻撃を受けました。
この壕は6月21日に下の壕、翌22日には上の壕が馬乗り攻撃を受けており、白梅学徒からも多くの死者が出ています。

現在でも2つの壕は残っており、下の壕隣に「白梅之塔」が建立しています。
ひめゆりの塔とは違い、付近は観光地化されずに自然の中に残っています。
現在の綺麗にされた白梅之塔の横に、最初に自然石でつくられた「白梅の塔」が残っています。

 

白梅之塔から車で5分もしない場所に「バックナー中将慰霊碑」があります。

バックナー中将は米軍側の司令官として、沖縄上陸作戦「アイスバーグ作戦」を指揮しました。

司令官といいながらも危険な前線まで視察をする人物で、日本側も階級章等からバックナー中将を識別し集中的に狙ったりしました。
バックナー中将が死亡した糸満市真栄里でも前線まで視察を行っていました。

米軍側の記録では砲撃によりえぐれたサンゴが胸に当たって死亡したとされる一方、日本側の元中隊長の証言では「自ら指揮して榴弾砲で砲撃した」といった証言や、「小野一等兵」という人物が小銃で狙撃したとの証言があるが小野一等兵の記録が厚生省に残っておらず、バックナー中将の死の状況は不明確のままになっています。

✅消失した遺構

東風平国民学校裏手に造られた「東風平分院」ですが、現在は遺構などが残っていません。

✅犠牲者

看護教育隊に入隊 56人(体調不良・家庭事情により10名除隊)
第二十四師団第一野戦病院解散時 46人
解散後、「下の壕・上の壕」以外の場所にいた学徒隊員 30名(内死者8名)
解散後、「下の壕・上の壕」に到着した学徒隊員 16人(内死者9名)
動員された内の死者数 17名

『沖縄戦の全学徒隊(ひめゆり平和祈念資料館 資料集4) 2008年6月23日発行 ひめゆり平和祈念資料館 編集・発行』の文章より作成。
人数が増減している可能性があります。

✅証言

苛酷を極めた手術場勤務

患者はほとんど手や足の切断でした。
内田和三郎上等兵(医師の卵だと聞いていました)が患者の腰椎に全身麻酔を注射すると、数分で意識がなくなります。
局所をアルコール消毒して、石黒信芳軍医中尉が執刀、メスを入れた途端、ムクッと白い脂肪が飛びだし、皮膚を上下から切り肉をえぐり骨を糸鋸でゴシゴシ切り落とし、血管や神経を引っ張って奥で結び、皮膚で包むようにして縫合して行くのです。
看護婦は器具を軍医や衛生兵に手渡す役目で、学徒はもっぱら灯り持ちでした。

二名の学徒はローソク四本を両手の指の間にはさんで、手術の局所を照らす役目でしたが、ローソクをたらしたり、ゆらゆら揺らしたり、その上、連日の睡眠不足でついうつらうつらしたりすると、軍医に肘で(手は消毒されたゴム手袋をしていました)小突かれ足で蹴飛ばされました。
すると、ハッと我にかえりました。
それはローソク踊りと呼ばれていました。

切断された大きな手や足を「捨ててこい」と手渡されます。
体から離れた手や足のずっしり重いこと。
ひとまず壕の入口に置かれてあるブリキの空罐に入れておきます。
一晩で四~五人の切断手術が行われ、終了する明け方には満杯になりました。

真栄田(旧姓:長嶺)ミヨ子

 

米軍の馬乗り攻撃を受けた国吉の壕

運命の日が来た。
6月21日頃だったか、下の壕が米軍の馬乗り攻撃を受けている…との伝令で、次はきっと、この上の壕が攻撃されると覚悟した。
下の壕勤務の学友の事を案じながらじっとしていると、そこへ、幼児を含む15人程の一般の人がぞろぞろ入り込んできた。
間もなく、「壕から出てこい」と、米軍の投降呼び掛けが2度~3度とマイクを通して聞こえてきた。
壕の中からは誰も答えない。
不意に十発位の手榴弾を投げ込まれ、目の前で十数人が呻き声を上げながら倒れた。
続いて黄燐弾が撃ち込まれた。
辺りは一寸先も見えなくなり何がどうなったか判らない。
気が付いた時には畳二畳程の小さな壕に入っていた。
それでも私たちは壕を出ていかなかった。
今度は「ボーッ」と音がしたかと思うと、激しい炎が壕内を襲った。
火炎放射である。
外側にいた人々は焼け死に、幼い子供たちは泣き叫び呻き、やがて声がしなくなって死んでいった。
学友の上原テル子さんと安森信子さんも、その日に帰らぬ人となってしまった。
テルちゃんと信ちゃんが、生前「お母さんに会いたい」と泣きながら小さな声で話していた。
思い出すとたまらなくなる。

大城(旧姓:金城)政子

沖縄戦の全学徒隊(ひめゆり平和祈念資料館 資料集4) P149~151より引用

✅参考資料

各所案内看板(ヌヌマチガマ・第二十四師団第一野戦病院壕)
沖縄戦の全学徒隊(ひめゆり平和祈念資料館 資料集4) 2008年6月23日発行 ひめゆり平和祈念資料館 編集・発行

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ポチ太郎

ポチ太郎

戦跡と旅行と黒柴が好きな管理人です。
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