脳症患者と破傷風患者
その死体片づけが大変でした。
死んで何日も放置された死体は膨れ上って大きいのです。
それを担架に乗せ、艦砲の合間を縫って、艦砲穴に一 二 三の掛け声で投げ込み、全身が隠れる位まで土をかけて埋めていました。
私達は栄養不良で痩せ細っていますし、二人でフラフラ落っことしそうになりながら足を踏ん張り作業を続けました。
雨は降るし 艦砲は来るし 生きた心地もしません。
翌日また埋葬に行ってみますと埋めた死者の足が飛び出している始末です。
連日の雨で土の沈澱が激しく、またそこに砲弾も落ちるからです。
「便器を下さい 尿器下さい」
「水をくれ」
とあっちからもこっちからも呼ぶんですよ。
患者も手当や尿便の処理だけでも人手不足なのに、看護が行き届かないと怒鳴りつける人もいるありさまで
「包帯を代えてくれ、治療してくれ」と言われても、衛生材料は全く足りないのです。
手の施しようもありません。
非常に困りました。
壕は二段式寝台になっていましたが「上の奴が尿を漏らした」と終始大声で怒鳴るし、死者の埋葬は毎日ですし、キリキリ舞いの忙しさで大変な勤務だったんですよ。
艦砲の落ちた穴には池のように水が溜まります。
それを飲み水に使うのですが、そこで洗濯もするし、虱(シラミ)の湧いた髪も洗います。
壕内の糞尿処理は悪い上、キビ殻の甘酸っぱい匂いに蝿が群がり、甚だしく不衛生で傷口は必ず蛆(ウジ)が発生しました。
生きた人間に蛆が湧くんです。
膿(ウミ)でジタジタになった包帯の中でムクムク動いて、ギシギシと肉を食べる音まで聞こえるのです。
ピンセットでつまみ出しても包帯の中に引っ込んでしまったりです。
薬も包帯もないので治療も出来ず、蛆とりだけが私達の仕事でした。
蛆が膿を吸い尽くすから、却って治りがいいと言っていました。
破傷風患者は口を開きませんから「水をくれ、水をくれ」と苦しまぎれに手真似で祈る恰好で訴えるんです。
かわいそうでしたが、固く閉ざした歯の隙間からガーゼの水で潤してあげるだけしか出来ません。
毒が脳に回った脳障患者は、絶えず訳の分からないことをしゃべり続けていました。
時々、私達の脚を掴えたりしますので転びそうになったりします。
それにうっかり尿でも傍らに置いておこうものならそれも飲んでしまう有様です。
元気な患者は夜、勝手に外に出て行って飼い主のいなくなった馬や山羊を捕まえてきて解体し食べていましたよ。
渡久山(旧姓:古堅)ハル
第一外科勤務
重傷者でひしめく糸数分室
手術の時の 兵士達の断末魔の叫び声は今でも耳にこびりついているんですよ。
地獄そのものでしたよ。
麻酔薬も充分にありませんから、本当に気休め程度しかうってくれないんです。
患者は「もういい、殺してくれ。軍医殿、殺してくれ」と叫ぶんです。
軍医は「貴様、日本軍人だろう。これぐらいのことが我慢出来なくてどうするんだ」といって叱るんです。
五月中旬になると、患者達の傷の悪化は非常に目立ってきました。
すべての患者達は身体中が膿と蛆だらけになっていましたね。
脳症患者も破傷風患者も次第に増えていきました。
脳症患者は頭がいかれていますから大変なんですよ。
重傷で寝ている人の上を平気で歩き回って暴れるのです。
「こいつを 何処かへ連れて行って」と騒ぐんです。
看護兵が来て壕の奥へ奥へと連れて行くんです。
「何処へ連れて行くんですか。」ときいても返事はしないんですよ。
破傷風患者は手足が痙攣し、終いには口が開かなくなるんです。
そうなるとおも湯も喉に通らないんです。
そんな患者は隔離室に移されるわけです。
戸板で囲われた狭い所に入れられて、助けてくれと訴えるように目だけをキョロキョロ させていましたよ。
島袋(旧姓:屋比久)淑子
糸数分室勤務
患者にかまうな、出ろ
伊原壕に着いてみたらいきなり「解散命令だ」と言う話ですよ。
仲宗根先生が皆を集めて伝えていたんです。
皆最初はどういう意味なのか状況が理解できずただぼんやりしてましたよ。
軍医達は「早く脱出せよ」とせきたてています。
もうどうしてもここからすぐに脱出しなければならない。
私はすぐ側にある玄米の俵から米を鷲掴みにして皆に配り粉味噌も配りました。
出ようとしたころにはもう夜も明け。
偵察機が何機も飛んでいます。
躊躇している所に第二外科の与那覇松助先生と内田先生が駆けこんできたのです。
先生方は「糸洲第二外科壕は馬乗り攻撃にあった。犠牲者も出た。それでここに合流することになった。」と言っていました。
「先生。ここも解散命令で 先生も生徒も 皆出て行ったんですよ。負傷した寝たっきりの生徒が残っているだけですよ」と言いますと、先生方は
「そうか」
とがっくりしていましたがすぐに負傷して残されている生徒達を見舞っていました。
横たわっていた同級生の知念芳さんは私のモンペを引っ張って私に言うのです。
「逃げないでくれ。私達を捨てて逃げないでくれ」
私がお椀に水を溜めて飲ませたりして迷っていますと、軍医達は
「患者は自分達が看る。構わずに早く出ろ。ここにいたら全滅だ。出なければ 叩っ切るぞ!」
と殺気立っているんです。
石川清子さん 神田幸さん 上江洲浩子さんは動くこともできず寝ていたんです。
でも皆、意識ははっきりしていましたよ。
入口を出たり引っ込んだりしていたら先に壕を出ていった照屋教頭が出てから迫撃砲にやられて手も顔も血まみれになって戻って来たのです。
私が先生に声をかけようとしたら先の軍医がまた
「構うな。出ろ」
と追い返しました。
与那嶺先生や内田先生と一緒に勇気を出して壕を後にしました。
方角も全くわからず、ただ人がいく方向についていくだけでした。
仲本(旧姓:島袋)トミ
第一外科勤務
沖縄戦の全学徒隊(ひめゆり平和祈念資料館 資料集4) P140~143より引用